称往院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/07 10:14 UTC 版)
称往院 | |
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所在地 | 東京都世田谷区北烏山5-9-1 |
位置 | 北緯35度40分42.6秒 東経139度35分43.1秒 / 北緯35.678500度 東経139.595306度座標: 北緯35度40分42.6秒 東経139度35分43.1秒 / 北緯35.678500度 東経139.595306度 |
山号 | 一心山 |
院号 | 称往院 |
宗派 | 浄土宗 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 慶長元年(1596年) |
開山 | 白誉称往上人 |
正式名 | 一心山極樂寺稱往院 |
法人番号 | 5010905000213 |
称往院(しょうおういん)は、東京都世田谷区にある浄土宗の寺院。「烏山寺町」を構成する26の寺院の1つである。
概要
1596年(慶長元年)、白誉称往上人によって開山される[1]。元々は湯島に位置していたが、1657年(明暦3年)の明暦の大火で浅草芝崎村(現・東京都台東区西浅草)に移転[2]。その後、1923年(大正12年)9月には関東大震災に罹災し、1927年(昭和2年)に現在地に移転した[2]。
墓地には、江戸時代の俳諧師・宝井其角[3]や、明治大正期に日本近代製鉄業の礎を築いた田中家の墓がある。
蕎麦禁制の碑


当院門前の左には、側面に「不許蕎麥地中製之而亂當院之清規故入境内」と刻まれた、角柱の石碑がある。これは「蕎麦禁制の碑」とも呼ばれる碑で、以下の由来がある。
かつての浅草時代の称往院の境内には、「道光庵」と呼ばれる塔頭があった。道光庵の庵主は信濃国の出身で、蕎麦打ちの腕前も名人級と評判であった。彼が打った蕎麦を檀家にふるまったところ評判になり、境内はそばを目当ての多くの人で賑わった。しかし人が集まりすぎ、本来の寺としての活動の支障になったため、とうとう住職が蕎麦の提供を禁止し、その旨の石碑を建てて締めだした[3]。移転の際、いつしか土に埋もれていたこの碑も掘り出されて運ばれ、門前に建て直されたものである。現在、蕎麦屋の名称に「○○庵」と名付けるものがあるのは、この道光庵の蕎麦の故事の名残である[3]。
交通アクセス
- 千歳烏山駅より徒歩15分。
脚注
参考文献
- 世田谷区 編『小学生の烏山寺町あんない 付 世田谷の社寺と遺宝その2』世田谷区、1978年
- 竹内秀雄 著『世田谷区史跡散歩 (東京史跡ガイド12)』学生社、1992年
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称往院(しょうおういん・地図)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 09:18 UTC 版)
「烏山寺町」の記事における「称往院(しょうおういん・地図)」の解説
浄土宗に属し、本山は知恩院、山号を「一心山」、寺名を「極楽寺」という。1596年(慶長元年)、江戸湯島に創建された。1657年(明暦3年)の明暦の大火で堂宇を焼失し、浅草柴崎村へと移る。称往院の旧末寺には良狭庵・道光庵の2寺院があったが、道光庵は1873年(明治6年)に称往院と合併した。良狭庵(良狭院)は台東区西浅草3-5-5に現存する。称往院は関東大震災罹災後の1927年(昭和2年)に烏山の現在地に移転した。かつて「そば切り寺」の異名があり、門前に由来の石碑が立っている。所在地は北烏山5-9-1。
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