烏山寺町の形成と発展とは? わかりやすく解説

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烏山寺町の形成と発展

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 09:18 UTC 版)

烏山寺町」の記事における「烏山寺町の形成と発展」の解説

烏山移転してきた寺院のうち、向旭院(現寺院名源良院)の「移転理由書」には、次に挙げる6つの点が記述されている。 区画整理の為、止むを得ないことである。 寺院は、本来、思想道徳涵養すべき超凡脱俗浄域あるべきである。 家屋密集地を避け火災憂い無くしたい教化宣伝便宜を図る付近に民家一軒もなく地広である。 散在している檀徒の墓を一所集めることができる。 『烏山寺町9-10頁では、「移転理由書」を引用した上で「これより推し量るに、烏山移転地として選ばれ最大理由は、広大な土地とそれを取り巻く自然の豊かさ、すなわち環境すばらしさにあった考えられよう」と記述している。その他に聞き取り調査確認された話によると、「囲碁仲間であった隣の住職誘われた」「烏山高円寺紹介されたが、こちらを選んだ」などの他に、「後藤新平仲介烏山移転した」というものもあったという。 後藤新平1920年大正9年)から1923年大正12年4月まで東京市市長務め1919年大正8年)の都市計画法市街地建築物法の公布によって東京都市計画推進した人物であった1923年大正12年)、関東大震災発生翌日成立した山本権兵衛内閣内務大臣就任し帝都復興院総裁兼務して震災復興再開発事業推し進めた後藤計画には、罹災した兵営学校寺院墓地などを東京市内から郊外移転させる方針含まれていた。都市計画家でもあった後藤は、調査熱心なことでも知られていた。後藤烏山かかわりについて『烏山寺町10頁では、「代替地となる市外地の隅々までを熟知していたに違いなく、烏山すばらし環境寺院建立適していることにいち早く目をつけていたとしても、何ら不思議なことではない」と結論付けている。 烏山への寺院移転同時期に成城学園郊外移転があった。東京市内の牛込区原町現在の新宿区原町にあった成城学園は、総合学園建設目的として学校拡張計画していた。関東大震災発生によって、新しい学校用地東京市外に移すことが決まった移転に際して1927年昭和2年4月1日小田急小田原線開通先立って駅を開設し、その駅名には学校名付すことなどが決められた。成城学園移転候補地について、当時関係者が「今の成城に来るまでには、国立小金井荻窪高円寺杉並烏山…とズイブン探しました」と証言している。 寺町形成され始めた頃、千歳村大字烏山の字松葉山付近は人家少なかった上に地味があまり良くない畑地などが広がっていたが、土地買い上げ値段通常より2-3になったという。寺院成城学園では、寺院の方が土地高く買ってくれたため、寺院売却する地主続出したとも伝わっている。なお、地主たちは付近道幅が9尺(約2.73メートル程度トラックなども通行できないため、道路拡幅用地を2間(約3.64メートル)分ずつ寄付するので甲州街道に至る道を拡げることと、下水道整備することの2つ条件出して交渉をまとめたといわれる烏山には1924年大正13年)から1949年昭和24年)にかけて、以下のとおり寺院移転してきた。 1924年大正13年) - 浄因寺源正寺乗満寺常栄寺 1925年大正14年) - 源良院 1926年大正15年) - 善行寺永願寺 1927年昭和2年) - 妙寿寺専光寺妙高寺幸龍寺 1928年昭和3年) - 永隆寺玄照寺存明寺称往院妙善寺萬福寺入楽寺常福寺妙揚寺順正寺 1929年昭和4年) - 宗福寺 1937年昭和12年) - 妙祐寺 1939年昭和14年) - 西蓮寺高源院 1949年昭和24年) - 多聞院 移転してきた当初各寺院バラック建ての仮のものであった寺町形成途上では、各寺院若年住職たちが率先して街づくり尽力し檀家徒弟寺院出入り人々などの協力得て道普請樹木植栽など周辺整備あたったという。土地提供した地主地元農家人々も、その動き支援した千歳村のはずれにできた寺町は、歳月過ぎて寺院建築と緑豊かな環境調和した風致地区となった烏山寺町一帯は「世田谷小京都」などと呼ばれ1984年昭和59年)には「烏山寺町」と「烏山鴨池」(北烏山四丁目高源院境内)が「せたがや百景」に選定された。 1927年昭和2年)、烏山寺町の9寺院参加して寺院懇話会」が発足し翌年には「寺院連合会」と改称した。後に「烏山仏教会」となって2010年平成22年)の時点では25寺院参加している。この会は寺町への電灯引込線設置管理や後から移転してきた寺院への設置割り当て徴収のために作られ組織であったが、後に親睦会的な性格強く帯びようになったため会の意味がないとして脱退した寺院もあったという。ただし、この会の力は宗派超えて開催される花まつり実施のときに発揮される。これは、たとえ宗派違って釈迦の教え1つであるという仏教思想によって人々教え導くために始められたものである寺町形成一段落しつつあった1928年昭和3年)、甲州街道沿いにあった和田住宅会場として第1回目となる「花まつり」が開催された。釈迦誕生を祝う烏山寺町花まつり4月初旬恒例行事となり、2014年平成26年)には84回を迎えている。

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