宝松院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/15 02:50 UTC 版)
延享年間、増上寺貫主了般の命で宝松院院主となり、管下の飯倉天満宮の社殿を改築した。寛延元年(1748年)8月25日、敬首の臨終に当たり、宗旨の安心、法門の趣を伝授された。宝暦2年(1752年)増上寺末浅草清光寺に伝恵心僧都作阿弥陀如来座像を寄進した。 宝暦8年(1758年)頃成立『冬至梅宝暦評判記』に絵師として掲載され、絵の技量を評価される一方、潤筆料の高さを皮肉られている。宝暦9年(1759年)8月細川興里正室清源院主催の細川幽斎150回追善歌莚に参加した。 宝暦11年(1761年)夏軽い病に罹って以来病状が悪化し、6月17日西を向いて念仏しながら入寂し、浅草芝崎町称往院に葬られた。昭和2年(1927年)寺は世田谷区烏山寺町に移転し、墓は墓地最奥部に現存する。
※この「宝松院」の解説は、「忍海」の解説の一部です。
「宝松院」を含む「忍海」の記事については、「忍海」の概要を参照ください。
- 宝松院のページへのリンク