松濤権之丞とは? わかりやすく解説

松濤権之丞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 22:29 UTC 版)

松濤 権之丞(まつなみ ごんのじょう、天保7年(1836年) - 慶応4年(1868年)4月末頃)は、日本の武士・幕臣。通称「権之丞」、諱名「泰明」で、正式名は「松濤権之丞泰明」。なお、「松濤」については、「松波」「松浪」「松並」等の表記例もある。


  1. ^ 波通の壬申戸籍の除籍謄本を入手確認できないため、波通と権之丞の関係が「実母子」であったのか「養母子」であったのかはわからない。波通の名前は、権之丞実子の泰近が後に青山霊園に建てた松濤家之墓の墓石に「泰近祖母波通 明治七年九月廿二日逝」として刻まれている。波通の姓については、そもそも松濤姓は権之丞が生後直ぐに預けられたお寺住職から貰った姓だった故、松濤とは別姓だった可能性が高い。「松濤波通」ではなく「泰近祖母波通」と泰近がわざわざ彫刻したのは、それが理由だったのかもしれぬ。
  2. ^ 加賀前田藩の支藩「大聖寺藩」の家老を務めていた山崎権丞家(加賀藩士山崎庄兵衛家を宗家とする一門。加賀藩士山崎長徳娘は前田利長養女となって加賀藩士青山吉次の養子青山長正(青山豊後守長正)に嫁いで四人の男児(長男正次、二男俊次、三男長鏡、四男宗長)を産んだが、長男正次は父長正後嗣となるも幼い息子吉隆を残して早世、二男俊次が分家として青山本家の後嗣吉隆後見になるも、吉隆齢十四の年、俊次から青山本家へ青山家伝来の武器銃器引き渡しの際に俊次が返却を渋り、吉隆の世話役となる青山家の家老早崎と諍いになり、俊次が早崎を手打ちにする事態が起き、吉隆は公に俊次の所業を訴え、俊次は能登富木へ流刑に処せられ、俊次の立てた分家は絶家となった。三男長鏡は外祖父山崎長徳の養子となって初代山崎庄兵衛長鏡となり、長鏡の長男は二代目山崎庄兵衛(但し病死により絶家)、次男(本来は三男。長鏡二男宗次は長鏡の弟の四男青山宗長の養子となった。)は大聖寺藩士山崎権丞家の初代山崎権丞となった。さらに、『加賀藩史稿』の「青山宗長」の項には、青山豊後長正四男青山織部宗長には子がなく、兄の山崎庄兵衛長鏡の二男勘左衛門宗次を養子とするも、宗次は子の長貞を遺して早世したため、宗長の後は長貞が継ぐも、ちょうど青山本家では時の五代目当主長重に子が無かったため、請われて長貞が分家と本家とを統合する形で青山本家の六代目当主になった、とある。)の当主は代々「山崎権丞(ごんのじょう)」を称していた。また、幕末期加賀藩における改革派家老として知られた山崎範古(のりひさ)はもともとは山崎権丞家の生まれ。権丞家五代目権丞無一(権丞家三代目権丞清記の三男。無一の実兄であり清記の長男、権丞家四代目権丞伊織が亡くなったため権丞家を継いだ。)の庶子として生まれたため、最初は一門の図書家二代目図書小三郎(無一の実弟。権丞家三代目権丞清記の五男。権丞家二代目権丞の四男、山崎図書家初代図書長考の娘の婿養子となる。)のところに養子として入るも、宗家の山崎庄兵衛家当主を先に継いでいた無一の息子で範古の実兄伊織長恒が早逝したため、急遽図書家後嗣の立場を離れて山崎庄兵衛家当主となり、後に加賀藩家老に任ぜられた。ちなみに、図書家の跡目は、大聖寺藩士斎藤忠兵衛家の後嗣養女となった権丞家三代目権丞清記の娘が婿養子寺西新蔵改め二代目忠兵衛を迎えて産んだ息子三代目忠兵衛の三男、つまり、権丞家三代目権丞清記の外曽孫が図書家二代目図書小三郎の娘の婿養子となり、三代目図書となった。その息子が四代目図書、山崎久兵衛。
  3. ^ 庶子ゆえに生まれるとすぐに母親から離されて寺へ預けられ育てられた、という伝承からは、本当の実父が加賀前田藩の家臣クラスの山崎範古ではなく藩主クラスの誰かだったのかもしれぬとの疑念も生ずる。事実、当時の加賀藩主は「前田斉泰」で、権之丞の諱名「泰明」の「泰」の字を名前に持っており、さらに権之丞は実子に「泰近」と名付けている。また、山崎範古は、かつて藩主斉泰世子の慶寧の傅(ふ)を務めたこともあったように斉泰からの信頼のまことに厚い人物だった。以下、一つの仮説を記す。前田斉泰は16歳のときに将軍家斉息女の溶姫と婚礼を挙げ、3年後、斉泰19歳のとき、将軍家斉の孫でもある長男慶寧が誕生。斉泰は大事な世子である慶寧の教育係に当時43歳の山崎範古を当てた。その6年後、江戸にて泰明誕生。波通と泰明の関係性を明かすことのできる唯一の史料である波通の壬申戸籍の除籍謄本が閲覧不可のため、ここでは、泰明の「実母」は不詳とする。泰明実母はもしかすると産後間もなく亡くなっているかもしれぬ。波通は産まれたばかりの泰明を抱えて加賀屋敷に駆け込むかなにかして斉泰からの何らかの証拠の品を示して相応の待遇を求めて訴え出、屋敷の者に赤子の泰明を預けたかもしれぬ。応対責任者の山崎範古がさんざん知恵を絞り、斉泰の名前を貶めぬよう、将軍家斉にも角が立たぬよう、泰明の実父を範古として泰明を加賀藩ゆかりの江戸のどこかのお寺に預けることにしたのかもしれぬ。これはあくまでも仮説である。
  4. ^ 本当の実父が山崎範古ではなくて前田斉泰だったかもしれぬ一方で、言い伝え通り、実父は山崎範古だった可能性もある。昔から芝増上寺門前には、前田斉泰正室の徳川家斉息女溶姫と何らかの縁があったかもしれぬ徳川家ゆかりの寺が多く、また、松濤姓の住職の寺も多く存在した。さらに、住職の名前が代々〈松濤泰○〉の寺もあったことから、松濤権之丞泰明の諱〈泰明〉の泰は、赤ん坊を預けられた寺の住職が寺に因む名前として命名した可能性もある。
  5. ^ 芝増上寺門前には住職が松濤姓(かつて松濤姓だった、も含む)の寺が多く、松濤(まつなみ)会という団体があるほどである。
  6. ^ 浄土宗増上寺別院の妙定院は、第九代将軍徳川家重開基で、もともと徳川家との縁が深い。前田家との縁は不詳も、もしかしたら前田斉泰正室の徳川家斉息女溶姫と何らかの縁があったかもしれぬ。
  7. ^ 小笠原開拓での上司小花作助は次男小花秋作を部下松濤のために嗣養子として差し出した。
  8. ^ 島での様子については、文倉平次郎『幕末軍艦咸臨丸』(上下、中公文庫、1993年)の上巻.第十八章「小笠原島の開拓」に詳述されている。
  9. ^ 前掲『幕末軍艦咸臨丸』、上巻.392頁参照。
  10. ^ 前掲『幕末軍艦咸臨丸』、上巻.394頁参照。
  11. ^ この旅行については、尾佐竹猛著『夷荻の国へ』(講談社学術文庫)や、鈴木明著『維新前夜』(小学館ライブラリイ)などに詳述されている。
  12. ^ 『続通信全覧』〈類輯之部10 修好門〉477頁、雄松堂出版参照。
  13. ^ これは、79歳の山崎庄兵衛範古ではないかと考えられる。というのも、その頃範古は隠居して江戸にいたのではないかと推測されるからである。加賀藩では、元治元年に世子前田慶寧が上洛した折、範古の子庄兵衛範正が家老を務め、松平大弐らとこれに従っていたが、時折しも、権之丞たちが横浜に帰港した翌日の7月19日に禁門の変が勃発し、慶寧は範正ら藩兵を率いて退京してしまう。このことが藩で大問題となった。隠居して穏斎と称していた範古は、かつて慶寧の傅(ふ)を務めたこともあり、慶寧の滞留先の近江海津へ向かおうと途中の福井まで出掛けたが、思い直して引き返した。範古のこの行動は藩の中で厳しく咎められ、8月10日、範古は謹慎を命じられた。
  14. ^ 前掲書『遣魯傳習生始末』によれば、彼横山敬一の実家の横山家は加賀前田藩家老を輩出した加賀八家の横山家の親戚筋にあたる家であったという。加賀八家の横山家へは人持組の山崎家の娘が嫁入りをしており、横山家と山崎家とは親戚関係にあった。
  15. ^ 軍艦『蟠龍』は4月28日に総督府側へ引き渡さなかった四艦〈開陽、回天、千代田形、蟠龍〉の一つであり、したがってこの日録の記述は、4月28日以降のものと考えられている。
  16. ^ 勝は、その三日後に、松濤の家(母波通、妻<安子か。>、惣領秋作<小花作之助次男秋作と同一人物。明治以降小花家に戻りのち伊藤家に婿入。外務省勤務。>、泰近<安子の息子で、続柄「権之丞弐男」。>)に十二両を遣わし、組下の者へは三十六両の手当を渡したという。
  17. ^ 墓石側面には、1873年明治6年)の火災により毀損したために1878年明治11年)に再建された旨と、建立者として、後に海軍大主計になった旧幕臣・静岡県士族の山縣正房(十三、1879年明治12年)38歳で没)の名前が刻まれている。
  18. ^ この院殿号法名は、西教寺ではなく静岡県清水興津の日蓮宗耀海寺で付けられた法名の可能性がある。西教寺の慶応年間の古い過去帳には、権之丞の法名として「禮譲院釋至誠恭明居士」と「慶応四年壬四月六日 徳川藩松浪権之丞恭明」並びに「土」(土葬の意)の記載がある。また、西教寺に残る「お焚き上げをした江戸時代の古いご位牌の記録」には、耀海寺ならびに西教寺の墓石に刻まれている院殿号法名とともに耀海寺の墓石にある俗名「松濤一歩」の名前がある。
  19. ^ 竹芝桟橋の小笠原協会所蔵の『小花日記』を読まれた鈴木高弘先生のblog記事によれば、「小花は、男子ばかり8人の子だくさんですが、その次男穐作を小笠原以来懇意の松浪に養子にあげる約束をし、内地に戻るとすぐに実行します。松浪には実は他に男子がいたのですが、正妻の子ではないということで穐作を迎えたのです(このため後に穐作は小花家に戻ります)。」とのこと。つまり、小笠原諸島開拓に出掛ける以前から権之丞には正妻以外の女性との間に男児がいたらしい。権之丞小笠原在島以降の元治元年7月20日生まれの泰近の除籍謄本には、続柄欄に「権之丞弐男」とあるので、これが他に「長男」の男児がいた証拠になるのだろうか。その「長男」が他家に里子か養子に出されていた可能性も考えられるが、そもそも家に伝えられている話に「長男」の消息に関するものが一切ないことがあらためて不可解。いずれにせよ、正妻との間の子でなかったことからその子をすんなり権之丞の惣領にすることはできず、そこで小花作助に相談したらしい。
  20. ^ 正式に参照できる泰近の最古の除籍謄本記録によれば、権之丞は泰近の「父」、穐作は泰近の「養父」となっている。
  21. ^ 西教寺の墓石に刻まれている安子の法名と没日は、「皆遥院殿妙龍日成大姉」、「明治六年十一月二十日」。権之丞の没年が実際よりも後ろにずらされて「明治三年」と刻まれていることから、この安子の墓石の没年月日が正しいものなのかどうかは不明。
  22. ^ なお、耀海寺に残るメモ書きによれば、その後大正時代になって泰近は、松濤家の正式な墓を鎌倉(?)のお寺に移すので耀海寺檀家から外れる旨を耀海寺側に伝えている。
  23. ^ 明治大学に残る卒業生名簿に拠れば、泰近の名前は明治15年(1882年)卒業の明治法律学校一期生の中にはなく、明治21年(1888年)12月卒業の箇所にあり、職業は「市吏員」となっている。明治法律学校は明治19年(1886年)に法律学部と行政学部の二学部を新たに設置しており、泰近は行政学部一期生だった可能性がある。
  24. ^ 家伝では胃癌とされている。
  25. ^ 本郷区役所にあった三谷家除籍謄本は東京大空襲で焼失。
  26. ^ 『寛政譜以降旗本家百科事典』(東洋書林、1998年)第5巻p2732、2733によれば、〈三谷惣兵衛元直(二丸留守居)、父:三谷左兵衛、本国:甲斐、屋敷:駿河台袋町、禄:100俵、弘化4年(1847年)10月逝去。〉〈三谷錮(こ)之丞(当分小石川馬場脇御書院番三宅左兵衛方同居、小普請諏訪支配)〉〈三谷惣三郎(重立肝煎(小普請)役金御免)、祖父:三谷惣兵衛・二丸留守居、父:三谷三郎兵衛・書院番 嘉永元年(1848年)5月4日家督相続小普請入り〉の三名の記述あり。
  27. ^ 長男哲之進(てつのしん)、長女文江(ふみえ)、次男権彌(ごんや)、三男恭麿(やすまろ)、四男泰亨(やすみち)。なお、泰近次男・権彌は、権之丞の最期に関わったとされる江原素六が創立した麻布学園に、恐らく17期生として入学、在学中に脊椎カリエスを発症して一年休学した後、18期生として大正2年(1913年)に卒業したようである。沼津市明治史料館には、泰近が校長江原素六に宛てた、印刷の麻布区長退任挨拶の手紙が現存する。
  28. ^ 権之丞や泰近の働きが評価されたようである。


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慶応4年1868年4月末頃)は、日本武士幕臣通称之丞」、諱名「泰明」で、正式名は「松濤権之丞泰明」。なお、「松濤」については、「松波」「松浪」「松並」等の表記例もある。

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