小笠原開拓とフランス渡航
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 22:36 UTC 版)
「松濤権之丞」の記事における「小笠原開拓とフランス渡航」の解説
権之丞が何歳まで寺にいたかはわかっていないが、やがて御家人株を買って幕臣(御家人)になったらしい。はじめ神奈川御役所附上番、次いで外国奉行支配定役格同心となった。 文久元年(1861年)12月、幕府は外国奉行水野忠徳を小笠原諸島に派遣し、日本領であることを宣言したが、権之丞はこれに随行(外交史料館に残る権之丞渡仏時の外交文書に「権之丞の親類」として名前が出てくる小花作助も外国奉行支配定役元締助として随行している)、咸臨丸で渡島して調査に当たった。。 翌文久2年(1862年)に、忠徳の帰府後も、八丈島からの移民とともに残って小笠原島を管理した。この間の権之丞に関するエピソードとしては、中浜万次郎、林和一郎らと鳥島に上陸し、権之丞の筆による「日本属島鳥島」の標柱を立てた話などが伝えられている。そして、権之丞は、文久3年(1863年)5月1日、ホーツン事件(日本人が初めて外国人を逮捕した事件)の罪人を連行して小笠原島を出帆し、5月11日に横浜に着船。 文久3年12月29日(1864年2月6日)、横浜鎖港談判のための遣仏使節の随員として、権之丞は、定役格同心という身分で、フランス艦ル・モンジュ号に乗り込み、横浜港を出航した。一行は途中エジプトに寄り、スフィンクスの前で記念写真を撮影。前述の、外交史料館に残る外交文書には、この渡仏の際の権之丞の留守引受名前として、「同役 菰田謙輔」「親類 小花作之助」の名前がある。 一行は、元治元年(1864年)5月17日にパリを出発し、7月18日(1864年8月19日)、ピ・オ汽船会社のガンジス号にて横浜港に帰国する。なお、内藤遂著『遣魯傳習生始末』(東洋堂、1943年9月刊)という本の194頁に、この一行の帰国の時に、同心町に住んでいた権之丞の老父が、大塚箪笥町にあった、マルセイユで黄熱病のために客死した随員の横山敬一の家を訪れたという記述がある。すなわち、「松濤の老父は使節一行の横浜安着を報じ、且つ安心すべき旨を告げて辞去した。(中略)松濤の父はわざわざ同心町より、大塚箪笥町まで訪れたのであるから、安着を語る以外に、特殊な用件があったものと解される。すなわち松濤は当時パリより横山看病のため、マルセイユに下りたる一人であるから、老父は横山の死を篤と承知していたものと言わねばならない。しかし、横山家のただならぬ雰囲気を察知し、弔慰の言葉も言えずに、ただ安心すべき旨を告げて辞去したものと察せられる。」と書かれている。 フランスから帰国した後の権之丞については、富士見御宝蔵番格・騎兵差図役下役、同砲兵差図役並勤方を経て、小十人格・軍艦役並となり、慶応3年(1867年)11月には古屋佐久左衛門とともに海軍伝習所通弁掛になった。やがて勝海舟配下の軍事方の一人になり、幕府内部の恭順工作を担当するようになる。今の東京都足立区の五兵衛新田に大久保大和(新撰組局長近藤勇)を訪ねたのも、のち官軍に捕縛された近藤宛に書簡を送ったのもそのためらしい。
※この「小笠原開拓とフランス渡航」の解説は、「松濤権之丞」の解説の一部です。
「小笠原開拓とフランス渡航」を含む「松濤権之丞」の記事については、「松濤権之丞」の概要を参照ください。
- 小笠原開拓とフランス渡航のページへのリンク