権之丞没後の松濤家について(補足)
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「松濤権之丞」の記事における「権之丞没後の松濤家について(補足)」の解説
権之丞の跡目は、「松濤権之丞惣領」として幕府にすでに届け出をしていた秋作(小花作之助・次男)がいったん相続したようである。そして、徳川家の駿府移封に伴い、松濤家も小石川茗荷谷の屋敷から駿府の大谷村へ移る。その間、安子は権之丞と自分の子である泰近を何とか松濤家の跡取りにしようと動いたようである。その結果、権之丞跡目相続をした秋作は松濤家を出て実家小花家に戻ったようである。そして、泰近は明治2年(1869年)に秋作から松濤家の家督を相続する。明治6年11月20日、安子が亡くなり、清水興津(現在の静岡市内)の日蓮宗教敬山耀海寺の墓地に松濤家の墓が建立され、権之丞と合わせて埋葬された。耀海寺の墓地には、今でも「松濤家之墓」の墓石が残っている。泰近は、安子の亡くなった後、秋作や小花家を頼ることなく、「相馬さん(権之丞が捕縛された近藤勇に宛てて認めた書簡を託した新撰組隊士の相馬主計と同一人物と思われるが、詳細は不明)」の許にて育てられたという。その後、明治法律学校に一期生として学び、麻布区書記、荏原郡長、麻布区長、麹町区長などを歴任。最後は東京市長・後藤新平の下で仕事をし、大正10年4月に麻布区長ならびに麹町区長を退任。その退任理由としては、大正9年から捜査が始まった東京砂利疑獄事件に関わった部下への管理不行き届きの責任を痛切に感じたためという話が伝わっている。昭和17年(1942年)5月4日に鎌倉市乱橋材木座263番地にあった家で肝臓膿症のために没。享年79歳。妻はカン(閑子。本郷の三谷家の出身。)、子は四男一女。泰近は生前熱心な読書家で、豊富な蔵書を持っていたという。「正岡子規全集」(改造社版)をはじめとする蔵書は、泰近没後に閑子によって鎌倉市の図書館に遺贈され、「松濤泰造(担当者が泰近の名前を誤記したものと見られる)文庫」として一時期広く活用された。また、家に伝わる話として、泰近の許にある日松濤家に対する華族令に基づく子爵叙爵の話があったようである。が、当時、長男哲之進は耳疾、次男権彌は脊椎カリエスを患っており、泰近は「健康な男子のいない家に叙爵されても意味がないから」と丁重にお断りをした、と伝えられている。
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