権之丞没後の松濤家についてとは? わかりやすく解説

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権之丞没後の松濤家について(補足)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 22:36 UTC 版)

松濤権之丞」の記事における「権之丞没後の松濤家について(補足)」の解説

之丞の跡目は、「松濤権之丞惣領」として幕府にすでに届け出をしていた秋作小花作之助・次男)がいったん相続したようである。そして、徳川家駿府移封に伴い松濤家も小石川茗荷谷屋敷から駿府大谷村へ移る。その間安子之丞と自分の子である泰近を何とか松濤家の跡取りにしようと動いたようである。その結果之丞跡目相続をした秋作松濤家を出て実家小花家に戻ったようである。そして、泰近は明治2年1869年)に秋作から松濤家の家督相続する明治6年11月20日安子亡くなり清水興津(現在の静岡市内)の日蓮宗教敬山耀海寺墓地松濤家の墓が建立され之丞と合わせて埋葬された。耀海寺墓地には、今でも松濤家之墓」の墓石残っている。泰近は、安子亡くなった後、秋作小花家を頼ることなく、「相馬さん(之丞が捕縛され近藤勇宛てて認めた書簡託した新撰組隊士相馬主計同一人物思われるが、詳細不明)」の許にて育てられたという。その後明治法律学校一期生として学び麻布区書記荏原郡長、麻布区長、麹町区長などを歴任最後東京市長・後新平の下で仕事をし、大正10年4月麻布区ならびに麹町区長を退任。その退任理由としては、大正9年から捜査始まった東京砂利疑獄事件に関わった部下への管理不行き届き責任痛切に感じたためという話が伝わっている。昭和17年1942年5月4日鎌倉市乱橋材木座263番地にあった家で肝臓膿症のために没。享年79歳。妻はカン(閑子。本郷三谷家の出身。)、子は四男一女。泰近は生前熱心な読書家で、豊富な蔵書持っていたという。「正岡子規全集」(改造社版)をはじめとする蔵書は、泰近没後に閑子によって鎌倉市図書館遺贈され、「松濤泰造(担当者が泰近の名前を誤記したものと見られる文庫」として一時期広く活用された。また、家に伝わる話として、泰近の許にある日松濤家に対す華族令に基づく子爵叙爵の話があったようである。が、当時長男哲之進は耳疾次男彌は脊椎カリエス患っており、泰近は「健康な男子のいない家に叙爵されても意味がないから」と丁重にお断りをした、と伝えられている。

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