権三郎の死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 08:14 UTC 版)
権三郎は「威力不動明王」として祀られ、生家所有の道端に不動堂が建立された。権三郎の業績を讃え、世に知らそうと、上古田村民全員信徒となって駒ヶ岳講「駒ヶ岳開山威力不動尊総元講」を結成し、村中で毎月15日の縁日に威力大聖不動明王の祭事の護摩供修法を行った。(明治20年(1887年)現在の場所に威力不動堂移し茅葺きの草屋を建てたが、昭和3年(1928年)1月11日に全焼した。再建は甲州、筑摩郡、諏訪の信徒の寄進で昭和4年(1929年)10月現在の威力不動堂が建立された。) 文化後期、甲州で駒ヶ岳講を組織化したのが、権三郎に協力した山田家の嘉三郎、孫四郎兄弟。山田家は甲斐駒ケ岳の麓にあり名主という信頼もあって、布教は順調に進み、講員は武州、相州などにも広がっていた。今日、北杜市の横手と竹宇に権三郎の教えを引き継ぐ駒ヶ嶽神社がある。 そこから山頂にいたる黒戸尾根には現在も権三郎を祀る「不動岩」(威力不動)がある。 同時期、乙事村でも行者修行をした人々によって駒嶽講が結成された。
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