青山吉次
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青山 吉次(あおやま よしつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。前田氏の家臣。加賀藩青山家の祖。官位は従五位下・佐渡守。
- ^ 婚礼前に前田利長養女となる。
- ^ 蒲生騒動(利家や景勝も大老として調停)に伴う上杉家の東蒲原と新川の交換による。「加賀藩文書」(前田育徳会など)に加増や城の受け取りを記した記録あり。
- ^ 婚礼前に前田利長養女となって、同じく利長養女長寿院と義理の姉妹となった。
- ^ 芳春院の生母竹野氏は夫篠原一計との死別後に高畠直吉のもとへ再嫁し、直吉嫡男吉光を産んだ。竹野氏娘芳春院と直吉嫡男吉光とは異父姉弟である。吉光には嫡男定吉と娘とがあり、娘は河尻秀隆に嫁いで、後に末守殿となる娘を産んだ。
- ^ 『加賀藩史稿』の「青山宗長」の項には、青山豊後長正四男青山織部宗長には子がなく、兄の山崎庄兵衛長鏡の二男勘左衛門宗次を養子とするも、宗次は子の長貞を遺して早世したため、宗長の後は長貞が継ぐも、ちょうど青山本家では時の五代目当主長重に子が無かったため、請われて長貞が分家と本家とを統合する形で青山本家の六代目当主になった、とある。
- ^ 青山淇水(1779-1848)(あおやま・きすい)は安永8年生まれ。加賀藩士。青山土佐守吉次・豊後守長正家当主。名は知次、通称は与三、将監。別号に碧鮮堂、清陰亭がある。定火消、御仏殿火消、奏者番、寺社奉行兼公事場奉行を経て、家老兼近習御用となった。文化期以後は、海外事情に関心を注いで学者を保護し、器械を購入した。文事を好み、専ら墨竹を描き、個性的な墨竹画を得意とした。嘉永元年、70歳で死去した。
- ^ 婚礼前に前田利長養女となる。
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