芳春院とは? わかりやすく解説

芳春院

読み方:ホウシュンイン(houshun’in)

宗派 臨済宗大徳寺派

所在 京都府京都市北区

本尊 釈迦如来

寺院名辞典では1989年7月時点の情報を掲載しています。

芳春院

作者寺林峻

収載図書戦国武将女たち―愛と野望織りなすもう一つ戦国絵巻
出版社日本文芸社
刊行年月1994.11
シリーズ名にちぶん文庫


芳春院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/09/02 01:08 UTC 版)

ほうしゅんいん
芳春院
芳春院像(前田育徳会蔵)
生誕 天文16年7月9日1547年7月25日
尾張国海東郡沖島
(現:愛知県あま市七宝町沖之島北屋敷)
死没 元和3年7月16日1617年8月17日
加賀国石川郡尾山
(現:石川県金沢市丸の内)
墓地 野田山墓地(金沢市
大徳寺芳春院京都市
別名 まつ
時代 戦国時代 - 江戸時代
宗教 臨済宗大徳寺派
配偶者 前田利家
子供 幸姫前田利長蕭姫摩阿姫豪姫与免前田利政千世
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芳春院(ほうしゅんいん、天文16年7月9日1547年7月25日) - 元和3年7月16日1617年8月17日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。加賀国石川県)の戦国大名前田利家正室篠原一計の娘。名はまつ戒名は芳春院殿花巖宗富大禅定尼。

母(竹野氏)が利家の母の姉であるため、利家とは従兄妹関係にあたる。学問や武芸に通じた女性であったと伝わる[1]

生涯

芳春院の石碑(尾山神社

天文16年7月9日1547年7月25日)、織田氏の家臣・篠原一計の娘として、尾張国海東郡沖島(現:愛知県あま市七宝町沖之島北屋敷)で生まれた[2]

天文19年(1550年)、父・一計が死去し、母が尾張守護斯波氏の家臣・高畠直吉と再婚すると、まつは母の妹が嫁いでいる尾張荒子城主・前田利昌に育てられた。

永禄元年(1558年)、数え12歳(満11歳)で利昌の子で自身の従兄弟にあたる前田利家に嫁ぎ、

瑞円寺の生誕地碑(愛知県あま市)

など、11歳から32歳までの約21年間で2男9女を出産した。なお、女性1人が産む子供の数が多かった戦国時代においても実子が11人いる女性は稀有であり、記録が残る限りでは伊達晴宗正室である久保姫と並んで最も数が多い。その子孫は近代の皇室にも血脈を伝えている。

千世姫(六女) - 徳姫 - 西園寺公満 - 久我通名室 - 広幡豊忠 - 正親町実連室 - 正親町公明 - 正親町実光 - 正親町雅子 - 孝明天皇 - 明治天皇

天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦い柴田勝家方に与した利家が敗走した際、越前府中城羽柴秀吉に会い、和議を講じて利家の危機を救った。

慶長4年(1599年)に利家が病死すると出家し、芳春院と号した。

慶長5年(1600年)、前田家に徳川家康から謀反の嫌疑がかけられた際には、交戦を主張する利長を宥め、それを解消させるため自ら人質となって江戸に下り、14年間をそこで過ごした。なお、江戸に護送される手配を前田玄以長束正家増田長盛の年寄が行っており、家康の大名統制策は内付・五奉行体制に基づいており、その構成員を動員している。この場合の公儀の拠り所は秀吉遺言覚書であり、これによって家康の公儀としての性格を裏付けることが可能となるから、家康の一方的な権力の乱用とは必ずしも言えないのである[3]。換言するならば、芳春院は公人として、豊臣政権の大老の生母としての扱いを受けながら江戸入りに至ったことを知らしめるものである[4]。この間、関ヶ原の戦いで西軍についた次男・前田利政の赦免や娘婿の宇喜多秀家の助命、養育していた利孝の大名取り立てを江戸幕府に直訴するなど前田家のために奔走する。ところが、利政の赦免の約束は土壇場で反故にされ、ショックから重体となり、幕府の命により伊勢で保養。金沢へは立ち寄りすら認められず、慶長19年(1614年)に長男・利長が死去すると、金沢へ帰国できた。なお、後に江戸幕藩体制において諸大名妻子の江戸居住制が確立するが、芳春院はその第一号となる。

元和3年(1617年)7月16日、金沢城内で死去、享年71。墓所は金沢市野田山墓地京都市北区大徳寺芳春院(分骨)。芳春院の化粧料7500石は、次男利政の子の前田直之に与えられ、直之は合計1万石を領して前田利常に仕え、その子孫は前田土佐守家として本家を支えた。

高台院との関係

豊臣秀吉の正室高台院(ねね、おね、北政所)とは懇意の間柄であったことで知られる。

  • 清洲城城下に住んでいた頃から親交があり、利家との婚姻では仲人の役割を果たしたと伝わる[5]
  • 子供のいない秀吉夫妻のために、豪姫を養女にさせた。まだ数え2歳(満1歳)の子供を手放したことから、おねとの信頼関係が強かったことがよく分かる[6]
  • 蒲生氏郷死後の蒲生家の跡目相続について、氏郷の子・鶴千代(後の蒲生秀行)が会津を襲封できたのは、まつが高台院に請願したためであったとされる[7]
  • 利家が豊臣秀頼の傳役となったことから、まつは秀頼の乳母の地位を得る。醍醐の花見でも秀吉の妻妾と共に列席するなど、乳母の地位にあったので主賓の一人となった[8]

主な登場作品

芳春院を主題とした作品

テレビドラマ
舞台劇

芳春院が登場した作品

テレビドラマ

脚注

  1. 尾山神社 お松の方像
  2. 岩沢 1988, p. 324.
  3. 宮本義己「徳川家康の豊臣政権運営―「秀吉遺言覚書」体制の分析を通して―」『大日光』74号、2004年。
  4. 宮本 2005, p. 147-148.
  5. 宮本 2005, p. 138.
  6. 宮本 2005, p. 141-142.
  7. 岩沢 1988, p. 325.
  8. 田端泰子『北政所おね―大坂の事は、ことの葉もなし―』ミネルヴァ書房、2007年8月、180-181頁。
  9. まつとおね - 能登演劇堂”. 能登演劇堂. 石川県七尾市: 演劇のまち振興事業団. 2025年2月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年3月24日閲覧。
  10. 復興願う「まつとおね」千秋楽 吉岡里帆さん、蓮佛美沙子さん熱演”. 北國新聞デジタル. 石川県金沢市: 北國新聞社 (2025年3月24日). 2025年3月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年3月24日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク




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