前田長種とは? わかりやすく解説

前田長種(まえだ ながたね) 1550~1631

甚七郎 対馬守
◇父:前田十郎種定 室:前田利家
 尾張織田信長臣。小牧長久手の戦い羽柴方につき尾張蟹江城を守るが、徳川・信雄軍に敗れ父は戦死、長種は利家を頼った。やがて加賀前田藩下越中・守山城守り幼少3代藩主利常を扶育した。

前田長種

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/06 19:20 UTC 版)

 
前田長種
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天文19年(1550年
死没 寛永8年3月11日1631年4月12日
改名 長種→源峯(号)
別名 通称:甚七郎
官位 対馬守
主君 織田信長信雄羽柴秀吉前田利家利長利常
加賀藩
氏族 前田氏(与十郎家・対馬守家
父母 父:前田長定
兄弟 長種横山長知
前田利家長女・
直知、長時、慶春院(溝口善勝室)、
神尾之直
養子:横山長知室(実妹)
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前田 長種(まえだ ながたね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将加賀藩士。加賀八家・前田対馬守家第3代当主[1]

出自

前田与十郎家は系図上では、加賀前田家美濃前田氏)の同族とされる。代々尾張国海東郡の前田城・下之一色城を有し、加賀前田家の本家筋にあたるといわれる。

生涯

天文19年(1550年)、前田長定の子として誕生する。

前田与十郎家は織田信長の家臣で、本能寺の変後に信長の次男・信雄に仕えた。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い滝川一益の誘いで羽柴秀吉陣営に寝返るが、同年の蟹江城合戦で織田信雄・徳川家康の連合軍に敗れ、父・長定は妻子共々家康に殺害され、叔父・前田定利も斬られた[2]

本拠・下之一色城にいた長種は降伏し、前田利家を頼り家臣となり能登国七尾城を守備する。その後、越中国守山城代となり、幼少時の加賀藩3代藩主・前田利常を養育した。富山城代を経て、慶長10年(1605年)、加賀国小松城代となり、2万石を給された。

以後、直知直正孝貞孝資孝昌孝友孝本と前田対馬守家は続いた。また嫡男・直知の四男・恒知から分かれた家系(前田将監家)は、幕末の前田恒敬に至っている。4代・孝貞の次男・孝和(勘解由)からは前田勘解由家が分かれている。

脚注

  1. ^ 「加賀八家「殿様」たちの末裔 藩主支えた絆 旧男爵家の誇りは今も」『月刊北国アクタス』2014年8月号
  2. ^ 武田茂敬『蟹江城合戦物語』武田茂敬(2008年)



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