溝口安勝とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 溝口安勝の意味・解説 

溝口安勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/05 17:46 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
溝口安勝
時代 江戸時代前期
生誕 元和5年(1619年
死没 元禄7年3月17日1694年4月10日
改名 直勝(初名)→安勝
別名 通称:九十郎・孫左衛門
戒名 安勝
墓所 青松寺
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川家光家綱綱吉
氏族 溝口氏
父母 父:溝口善勝、母:前田長種娘・慶春院
兄弟 政勝助勝安勝信勝
正室:高林吉次娘
友勝、常勝、溝口信勝養女

溝口 安勝(みぞぐち やすかつ)は、江戸時代前期の旗本越後国沢海藩初代藩主・溝口善勝の三男。分家独立して旗本となる。通称は九十郎・孫左衛門。は初め直勝(なおかつ)、のち安勝に改める。

略歴

寛永11年(1634年)、初めて3代将軍・徳川家光に拝謁する。同年、父の遺領越後蒲原郡のうちにて1000石を分与される。この知行地は越後蒲原郡山口村(現新潟県阿賀野市山口町)を中心としていたことから、安勝の系統の家を山口溝口家とも称する。

慶安3年(1650年書院番士となり、寛文4年(1664年)には上野下野常陸等の巡見使を務める。寛文9年(1669年)には目付代として島原城に赴き、のち松平忠房への同城引き渡しを務める。寛文12年(1672年)に使番となり、以後もしばしば各地への監察・使者の役目を務めた。天和2年(1682年)には上野国山田郡のうちに500石の地を加増される。貞享2年(1685年)、勤めを辞して寄合に列す。

元禄元年(1688年)に致仕して家督を嫡子の友勝に譲る。この時、友勝には越後の1000石を与え、同時に次男常勝には上野の500石を分与して分家独立させた。致仕後の号は安勝(このことから安勝の名は致仕後の晩年のみ使われた可能性もある)。

元禄7年(1694年)3月17日に76歳で歿。法名は安勝。江戸貝塚の青松寺に葬られ、以後同寺は当家代々の葬地となった。

系譜




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「溝口安勝」の関連用語

1
18% |||||

2
10% |||||

3
10% |||||

溝口安勝のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



溝口安勝のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの溝口安勝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS