桃山時代~富山城の破却と再建
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 13:43 UTC 版)
「富山城」の記事における「桃山時代~富山城の破却と再建」の解説
富山城に拠点を構えた佐々成政は富山城の大規模な改修を行った。本能寺の変の後、豊臣秀吉と敵対した成政は、1585年(天正13年)8月、秀吉自ら率いる10万の大軍に城を囲まれ降伏し(富山の役)、富山城は破却された。この際に、秀吉は本陣を富山城西方4kmの白鳥城まで進めたものの富山城には入らず帰還したとするのが従来の定説であるが、成政が降伏した直後の1585年(天正13年)閏8月1日に富山城に入城していたとする説が新たに提起されている。同年、恩賞で越中三郡を得た前田家は、利長を守山城に入れた。 文禄4年(1595年)には利長に越中の残る新川郡も加増され、青山吉次が上杉家の越中衆(土肥氏・柿崎氏・舟見氏など)から郡内の諸城を受け取る。その後、利家から家督と加賀の所領を譲られた利長は、尾山城(金沢城)に入城した。 関ケ原で東軍につき加賀藩の太守となった利長は富山城を再建、大改修を行い金沢城から移り住み隠居城としたが、1609年(慶長14年)に建物の主要部をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移り、富山城には家臣の津田義忠が城代として入った。
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