本能寺の変の後とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 本能寺の変の後の意味・解説 

本能寺の変の後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:42 UTC 版)

筒井順慶」の記事における「本能寺の変の後」の解説

天正10年1582年6月2日明智光秀信長討ち取った本能寺の変起こった順慶福住順弘布施左京進慈明寺順国箸尾高春島清興左近)・松倉重信一族重臣召集し評定行った光秀順慶与力信長傘下に入る際の仲介者縁戚関係でもあり、武辺の多い織田軍団としては数少ない教養人同士として友人関係であった。そのため、光秀から変の後に味方になるよう誘われた。 順慶辰市近隣まで派兵して陣を敷いたが、積極的には動かなかった。だが、消極的ながらも近江に兵を出して光秀協力したその後評定重ね一度河内国へ軍を差し向ける方針立てたが、結局は食料備蓄させて篭城する動きをみせた。6月10日には、誓紙を書かせて羽柴秀吉への恭順決意した同日光秀家臣藤田五郎順慶光秀への加勢促すよう郡山城訪れたが、順慶はこれを追い返している。6月11日には、順慶郡山切腹したという風聞始め流言蜚語流れた光秀与力親密な関係にあった順慶加勢期待して河内国抑えるため洞ヶ峠布陣し順慶動静見守ったが、順慶静観態度貫徹した洞ヶ峠への布陣は、順慶への牽制威嚇であったとも解釈されている。なお順慶洞ヶ峠布陣しということについては、良質史料では全く確認することができない『太閤記』のような俗書でも光秀布陣して順慶待ったと書かれている。『増補筒井家記』には、順慶島左近勧め洞ヶ峠布陣しと書かれているが、この本は誤謬充満の悪本であり、この説は誤りである。ただ日和見順慶という言葉は相当古くからあったようで、それはこの際における順慶態度表現している。 結局光秀6月13日山崎での戦闘敗走時に落ち武者狩り討たれる山崎の戦い)。光秀謀反際し、自らの与力立場にある近畿地区織田大名たちが味方してくれることを期待していたが、このうち18万石大和与力合わせる45万石)の順慶12万石細川幽斎味方しなかったことは、その兵力大きさ致命傷となった6月14日順慶大和出立して京都醍醐向い羽柴秀吉拝謁したこの際秀吉順慶の遅い参陣を叱責した。秀吉叱責によって順慶体調崩し、その話が奈良一円伝播して人々焦燥させた(『多聞院日記』)。6月27日織田家後継者選別する清洲会議実施され順慶は他の一般武将と共に待機している。7月11日には、秀吉への臣従の証として、養子従弟、甥でもあった)定次を人質として差し出している。 光秀死後秀吉家臣となり、大和所領安堵された。天正12年1584年)頃から胃痛訴え床に臥していたが、小牧・長久手の戦いに際して出陣促され病気をおして伊勢美濃転戦大和帰還し程なく36歳病死した。筒井家は定次が継いだ

※この「本能寺の変の後」の解説は、「筒井順慶」の解説の一部です。
「本能寺の変の後」を含む「筒井順慶」の記事については、「筒井順慶」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「本能寺の変の後」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「本能寺の変の後」の関連用語

本能寺の変の後のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



本能寺の変の後のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの筒井順慶 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS