本能寺の変の後
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天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が信長を討ち取った本能寺の変が起こった。順慶は福住順弘・布施左京進・慈明寺順国・箸尾高春・島清興(左近)・松倉重信ら一族、重臣を召集して評定を行った。光秀は順慶が与力で信長の傘下に入る際の仲介者で縁戚関係でもあり、武辺の多い織田軍団としては数少ない教養人同士として友人関係であった。そのため、光秀から変の後に味方になるよう誘われた。 順慶は辰市近隣まで派兵して陣を敷いたが、積極的には動かなかった。だが、消極的ながらも近江に兵を出して光秀に協力した。その後も評定を重ね、一度河内国へ軍を差し向ける方針を立てたが、結局は食料を備蓄させて篭城する動きをみせた。6月10日には、誓紙を書かせて羽柴秀吉への恭順を決意した。同日、光秀の家臣・藤田伝五郎が順慶に光秀への加勢を促すよう郡山城を訪れたが、順慶はこれを追い返している。6月11日には、順慶が郡山で切腹したという風聞を始め流言蜚語が流れた。 光秀は与力で親密な関係にあった順慶の加勢を期待して、河内国を抑えるため洞ヶ峠に布陣し、順慶の動静を見守ったが、順慶は静観の態度を貫徹した。洞ヶ峠への布陣は、順慶への牽制、威嚇であったとも解釈されている。なお順慶が洞ヶ峠に布陣したということについては、良質の史料では全く確認することができない。『太閤記』のような俗書でも光秀が布陣して順慶を待ったと書かれている。『増補筒井家記』には、順慶は島左近の勧めで洞ヶ峠に布陣したと書かれているが、この本は誤謬充満の悪本であり、この説は誤りである。ただ日和見順慶という言葉は相当古くからあったようで、それはこの際における順慶の態度を表現している。 結局、光秀は6月13日に山崎での戦闘の敗走時に、落ち武者狩りに討たれる(山崎の戦い)。光秀は謀反に際し、自らの与力的立場にある近畿地区の織田大名たちが味方してくれることを期待していたが、このうち18万石(大和の与力を合わせると45万石)の順慶と12万石の細川幽斎が味方しなかったことは、その兵力の大きさで致命傷となった。 6月14日、順慶は大和を出立して京都醍醐に向い、羽柴秀吉に拝謁した。この際、秀吉は順慶の遅い参陣を叱責した。秀吉の叱責によって順慶が体調を崩し、その話が奈良一円に伝播して人々を焦燥させた(『多聞院日記』)。6月27日、織田家の後継者を選別する清洲会議が実施され、順慶は他の一般武将達と共に待機している。7月11日には、秀吉への臣従の証として、養子(従弟、甥でもあった)定次を人質として差し出している。 光秀死後は秀吉の家臣となり、大和の所領は安堵された。天正12年(1584年)頃から胃痛を訴え床に臥していたが、小牧・長久手の戦いに際して出陣を促され、病気をおして伊勢・美濃へ転戦。大和に帰還して程なく36歳で病死した。筒井家は定次が継いだ。
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