本能寺の変・清洲会議とは? わかりやすく解説

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本能寺の変・清洲会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 13:35 UTC 版)

織田秀信」の記事における「本能寺の変・清洲会議」の解説

天正8年1580年)、織田信忠長子として生まれた幼名三法師。 母・徳寿院塩川長満の娘、森可成の娘、あるいは武田信玄の娘・松姫とも。なお、母が松姫場合武田信玄外孫という事になる。『美濃国古蹟考』によると、和田太夫女であるという。高野山悉地院過去帳母方祖母進藤氏としており、進藤氏の娘の可能性もある。 天正10年1582年)の本能寺の変の際、父・信忠居城岐阜城に在城していたが、前田玄以長谷川嘉竹木下宗信紀州小山氏)に保護され清洲城へと避難した。この折、二条城におり信忠から末期行光短刀与えられたという言い伝えがある。同年清洲会議において羽柴秀吉周旋により、わずか3歳織田弾正忠家家督相続し直轄領として近江国中郡20万石を得る。代官堀秀政務めたこの際決定安土城に移ることになったが、叔父織田信孝によって岐阜城留め置かれ、これを発端として秀吉と信孝は干戈を交えることとなる。信孝が敗れて降伏した後は、一応の整備がなった安土城仮屋敷へ移り織田家家督代行となった織田信雄後見受けた。 ただし、織田氏家督継承織田政権解体豊臣政権確立過程複雑な経緯辿っている。天正12年1584年)に羽柴秀吉織田信雄対立すると、三法師安土城から坂本城次いで京都秀吉の下に移された。そして、同年11月秀吉と信雄が講和をする(小牧・長久手の戦い)と、政治的立場逆転させた豊臣秀吉羽柴秀吉)は織田家家督を信雄に正式に認め三法師は再び坂本城移された。

※この「本能寺の変・清洲会議」の解説は、「織田秀信」の解説の一部です。
「本能寺の変・清洲会議」を含む「織田秀信」の記事については、「織田秀信」の概要を参照ください。

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