文禄・慶長の役 - 加能越の太守へとは? わかりやすく解説

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文禄・慶長の役 - 加能越の太守へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 13:46 UTC 版)

前田利家」の記事における「文禄・慶長の役 - 加能越の太守へ」の解説

詳細は「文禄・慶長の役」を参照 国内統一した後の秀吉唐入り高麗御陣)、すなわち朝鮮出兵始める。 天正19年1591年8月秀吉より出兵の命が出され名護屋城築城始められた。 文禄元年1592年3月16日、利家は諸将先んじて京を出陣名護屋向かった言経卿記)。従う兵は8,000というが、嫡子の利長は京に停められている。初め秀吉は自ら渡海する意思持っていたが、利家は徳川家康と共にその非なるを説き思い止まらせた。7月22日秀吉は母・大政所危篤の報を得て急ぎ帰京する葬儀を終えて、再び名護屋へ向け大坂発ったのが10月1日多聞院日記)。約3ヶ月名護屋留守にしていたが、その問、秀吉に代わって諸将指揮し政務行っていたのは、家康と利家であり、のちの五大老原型みてとれる文禄2年1593年1月渡海の命を受けて準備し陣立てまで定まったが、間もなく明との講和動き進み結局は渡海に及ばなかった。5月15日、明使が名護屋に着くと、家康・利家の邸宅がその宿舎とされた。8月豊臣秀頼誕生の報に、秀吉大坂に戻る。利家も続いて東上し11月金沢帰城した。このときにまつの侍女である千代の方との間に生まれた子供千代、のちの第三加賀藩主前田利常である。 文禄3年1594年1月5日、利家は、毛利輝元上杉景勝同日従三位叙位され、4月7日には2人よりも先に権中納言に任ぜられたことで、これまで輝元・景勝後塵拝していた官位序列の面において逆転することになる。これは、秀吉が利家を徳川家康対抗させ、豊臣一族補佐させる存在にすべく、儀礼的な面でも序列引き上げ図ったものとみられている。 文禄4年1595年)、越中の残る新川郡をも利長に加増重臣青山吉次上杉家越中衆(土肥政繁柿崎憲家)から天神山城宮崎城受け取る。前田家石高加能越にまたがり83万石余(うち越中守山は利家監督のもと利長が統治能登小丸山は生前より利政に分与)となり利家の生涯最大となる。

※この「文禄・慶長の役 - 加能越の太守へ」の解説は、「前田利家」の解説の一部です。
「文禄・慶長の役 - 加能越の太守へ」を含む「前田利家」の記事については、「前田利家」の概要を参照ください。

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