文禄・慶長の役 - 加能越の太守へ
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「前田利家」の記事における「文禄・慶長の役 - 加能越の太守へ」の解説
詳細は「文禄・慶長の役」を参照 国内を統一した後の秀吉は唐入り(高麗御陣)、すなわち朝鮮出兵を始める。 天正19年(1591年)8月、秀吉より出兵の命が出され、名護屋城の築城が始められた。 文禄元年(1592年)3月16日、利家は諸将に先んじて京を出陣、名護屋に向かった(言経卿記)。従う兵は8,000というが、嫡子の利長は京に停められている。初め秀吉は自ら渡海する意思を持っていたが、利家は徳川家康と共にその非なるを説き、思い止まらせた。7月22日、秀吉は母・大政所危篤の報を得て、急ぎ帰京する。葬儀を終えて、再び名護屋へ向け大坂を発ったのが10月1日(多聞院日記)。約3ヶ月間名護屋を留守にしていたが、その問、秀吉に代わって諸将を指揮し、政務を行っていたのは、家康と利家であり、のちの五大老の原型がみてとれる。 文禄2年(1593年)1月、渡海の命を受けて準備し、陣立てまで定まったが、間もなく明との講和の動きが進み、結局は渡海に及ばなかった。5月15日、明使が名護屋に着くと、家康・利家の邸宅がその宿舎とされた。8月、豊臣秀頼誕生の報に、秀吉は大坂に戻る。利家も続いて東上し、11月に金沢に帰城した。このときにまつの侍女である千代の方との間に生まれた子供が猿千代、のちの第三代加賀藩主・前田利常である。 文禄3年(1594年)1月5日、利家は、毛利輝元・上杉景勝と同日に従三位に叙位され、4月7日には2人よりも先に権中納言に任ぜられたことで、これまで輝元・景勝の後塵を拝していた官位の序列の面において逆転することになる。これは、秀吉が利家を徳川家康に対抗させ、豊臣一族を補佐させる存在にすべく、儀礼的な面でも序列の引き上げを図ったものとみられている。 文禄4年(1595年)、越中の残る新川郡をも利長に加増、重臣の青山吉次が上杉家の越中衆(土肥政繁・柿崎憲家)から天神山城や宮崎城を受け取る。前田家の石高は加能越にまたがり83万石余(うち越中守山は利家監督のもと利長が統治、能登小丸山は生前より利政に分与)となり利家の生涯で最大となる。
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