土肥政繁とは? わかりやすく解説

土肥政繁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/13 07:43 UTC 版)

土肥 政繁(どい まさしげ、生年不詳 - 天正18年(1590年))は戦国時代の武将。越中国弓庄城主。通称、四郎。官位は美作守。娘は下秀久の室。越中国人として織田・上杉の間を転々とし、晩年は上杉景勝のもと越中衆の一員として、主に北陸戦線で活躍した。


  1. ^ 『土肥家記』には「然は、天正初比、美作守殿代に到るまて、新川一郡は大半領之、弓庄に居城有けるゆへ、弓庄殿と号す」とあって、政繁の代には新川郡の大半を領するまでになっていたことが記されている。
  2. ^ 『土肥家記』に収められた「弓之庄古城之図」には「爰ヲハリツケ田ト云」と、磔にされた場所が特定されている。
  3. ^ 同年発生の死者まで出した蒲生騒動に伴う上杉家の東蒲原と新川の交換による。このため秀吉もしくは豊臣家からの新川郡の領知判物が前田家になく(現在の前田家(「加賀藩文書」前田育徳会など)にも加増を記した記録はあるが、公儀の領地宛行状などは現存せず)、江戸時代に徳川幕府から越中国の返上を迫られる一因にもなる。
  4. ^ 上杉家文書『致知嚢』では武田(甲斐)、畠山(能登)、山本寺(守護上杉庶流)、本庄(揚北)、山浦(信濃)らが家臣団上位を占め、越中衆の筆頭は魚津城主だった須田氏(1000石→200石)となっている。


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