一門葉とは? わかりやすく解説

一門葉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 20:13 UTC 版)

神保氏」の記事における「一門葉」の解説

神保職広 – 宗家当主神保長職より偏諱を賜う神保覚広(信包) – 長職重臣。( 生没年不詳1523年 - 1577年、覚広。読みは「ただひろ」「よしひろ」などが伝わる。 - 1582年頃、信包。読みは「のぶかね」。*職広-覚広の詳しい系譜不明。「広」の字が共通していることから両者父子関係にあるとみられる。「信包」は織田信長の弟・信包に因んだとみられる。)ー 1569年長尾氏神保氏仲介行った人物として伝わる。神保長職の後、上杉謙信配下となる。1579年頃には織田神保長住に従うものの、1581年佐々成政越中入国する1582年上杉方より神保昌国(宗四郎)等に太田領有越中支配委任約束され小島職鎮唐人親広らと長住から離反し長住幽閉、成政に抗した本能寺の変経て同年7月昌国らと伴に直江兼続上杉景勝越中出陣要請をした。その後すぐ没したのか不明。しかし、昌国らは七尾前田安勝宛に、須田満親が境要害打ち破り在々放火しており、上杉方と連盟すれば成政の滅亡眼前のものと、前田利家への取りなし求めた状を天正12年9月18日差し出している 。前年1583年豊臣秀吉が、上杉景勝や一一揆結んだことから須田満親小出城魚津城開城しており、1585年には秀吉富山の役で成政は退陣し、景勝にも越中覇権はない。土肥政繁唐人親広ほか神保家臣らが景勝庇護頼り兼続の下に赴いたのとは対照的に昌国と共に帰依、または帰農して越中における神保氏復権の幕を引いたものと見られる神保孝続

※この「一門葉」の解説は、「神保氏」の解説の一部です。
「一門葉」を含む「神保氏」の記事については、「神保氏」の概要を参照ください。

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