文禄・慶長の役と五大老就任とは? わかりやすく解説

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文禄・慶長の役と五大老就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 21:24 UTC 版)

毛利輝元」の記事における「文禄・慶長の役と五大老就任」の解説

文禄元年1592年2月、輝元は秀吉朝鮮出兵応じ朝鮮へと渡海するために広島城出発したその後4月小西行長先陣として朝鮮に入ると、諸将もそれに続き、輝元率いる3軍勢六番隊として朝鮮入り5月星州布陣した。 6月、輝元は開寧に陣を進め五番隊連携して日本軍連絡線守備就いた開城陥落後、諸将漢城軍議開き各方面軍による八道国割呼ばれる制圧目標決め、輝元は七番隊として慶尚道制圧することとなった。輝元は同月の茂渓の戦い8月第一次星州城の戦い9月第二次星州城の戦いなど、慶尚道において朝鮮軍激戦繰り広げた文禄2年1593年3月日本朝鮮援軍たる明との間で講和交渉進められると、8月に輝元は朝鮮から帰国した文禄4年1595年7月秀吉の甥で関白豊臣秀次高野山切腹させられるいわゆる秀次事件発生した。この事件は、輝元と秀次がかつて交わしたという誓約発端となっているとされてきた。しかしながら小瀬甫庵『太閤記』記されているような輝元と秀次が誓紙交わしたとする確証存在しない、とする反論がある。 同年8月、輝元は秀次事件克服しよう考え秀吉より、徳川家康とともに五大老任じられた。このとき、輝元と秀次との誓約先の事件発端となったため、御掟五ヶ条が発令され諸大名間の縁組誓約同盟)が全面的に禁止された。 同年10月18日長らく実子がいなかった輝元に嫡子・秀就が誕生した。だが、輝元は従兄弟である秀元(穂井田元清の子)をすでに養子としており、秀吉からも輝元の後継者として認められていたため、その処遇問題となった慶長2年1597年2月秀吉は明との和平交渉決裂したことで再度朝鮮出兵命じ西国諸将動員令が発せられた。だが、輝元はこのとき病身のため出陣できず、養子の秀元が代わりに出陣した。この時の兵力文禄の役と同じ3であり、秀元もまた輝元と同様に各地奮戦している。

※この「文禄・慶長の役と五大老就任」の解説は、「毛利輝元」の解説の一部です。
「文禄・慶長の役と五大老就任」を含む「毛利輝元」の記事については、「毛利輝元」の概要を参照ください。

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