小栗忠高とは? わかりやすく解説

小栗忠高

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 00:09 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

小栗 忠高(おぐり ただたか、文化6年1月3日1809年2月16日) - 安政2年7月28日1855年9月9日))は、江戸幕府旗本(知行2,500石)。

経歴

中川忠英(飛騨守)の四男。隣家の小栗家10代、小栗忠清の娘くに子(くに、邦子)の婿となり、小栗家を継ぐ。通称、又一。義弟に日下数馬(庄次郎。房元。忠高が婿養子に入ったのちに出生した為、日下家の養子に入った)。子に長男小栗忠順

持筒頭などを歴任し、嘉永7年(1854年)閏7月1日に新潟奉行となり、任地で安政2年(1855年)に病のため47歳で没す[1]。墓所は新潟市法音寺。家督は忠順が継いだ。忠高は生前に祭祀料として50両を親しくしていた紙問屋の藤井忠太郎に預け、小栗家の祭祀の際にはそれを使って法音寺に支払いをした[2]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 医師の誤診により死んだとされる。上州路 2003年1月号 あさを社
  2. ^ 小栗上野介の子孫『大隈侯一言一行』市島謙吉、 (早稲田大学出版部, 1922)

参考文献

関連項目





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「小栗忠高」の関連用語

小栗忠高のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



小栗忠高のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの小栗忠高 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS