家督相続前
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幼少の頃は、長身だが色白で大人しく人に会っても挨拶も返事もせずにぼんやりしていたため、軟弱ともうつけ者とも評される性格から「姫若子」(ひめわこ)と揶揄されており、父の国親は跡継ぎとして悩んでいた。 初陣の長浜の戦いの際、家臣の秦泉寺豊後に槍の使い方と大将の行動を聞いたという逸話がある。秦泉寺豊後は「槍は敵の目と鼻を突くようにし、大将は先に駆けず臆さずにいるもの」と答えた。そしていざ戦になると元親はその通りに行動し、敵兵を見事に突き崩し(『元親記』)、「鬼若子」と賞賛された。 一条氏の臣従時代に寺社奉行であった関係からか、熱心に寺社復興を行っており、四国統一戦の最中にも讃岐国の寺院を復興させるなど、手厚く僧侶を保護しており、谷忠澄や非有など神官・僧侶出身の者が家臣に抜擢される例も多かった。特に非有は元親の信頼を得て出頭人として領国支配に広範な権限を行使した。
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家督相続前
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慶長8年(1603年)に下野国に4,500石を領する交代寄合福原氏初代当主・福原資保の長男として生まれる。 元和元年(1615年)に徳川秀忠に御目見する。元和3年(1617年)の秀忠上洛の際には病身である父に代わって供奉し、これ以後も父の代理で二度供奉をした。元和5年(1619年)には伏見において仰せを承り、松平重忠・秋元泰朝に属して駿府城番を務めた。
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家督相続前
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異母兄・直勝と同じ天正18年(1590年)、井伊直政の次男として駿河国中里(焼津市)で誕生。直孝の生母とされる印具道重の娘・養賢院(諸説あり)は直政の正室・唐梅院(徳川家康の養女)の侍女だったという説があり、正室に遠慮した直政が初めて直孝と対面したのは慶長6年(1601年)であったとされる。幼少期は井伊家領内の上野国安中の北野寺に預けられ、そこで養育された。 慶長7年(1602年)の直政の死後は江戸にあって徳川秀忠の近習として仕え、秀忠が2代将軍に就任した慶長10年(1605年)4月26日に従五位下掃部助に叙位・任官。慶長13年(1608年)に書院番頭となり上野刈宿5,000石を与えられ、次いで慶長15年(1608年)には上野白井藩1万石の大名となり、同時に大番頭に任じられた。慶長18年(1613年)には伏見城番役となった。
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家督相続前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 19:35 UTC 版)
文政10年(1827年)、禄高2,500石の旗本・小栗忠高の子として江戸駿河台の屋敷に生まれる。幼名は剛太郎。当初、周囲からは暗愚で悪戯好きな悪童と思われていたが、成長するに従って文武に抜きん出た才能を発揮し、14歳の頃には自身の意志を誰にはばかることなく主張するようになった。 8歳から、小栗家の屋敷内にあった安積艮斎の私塾「見山楼」に入門、栗本鋤雲と知り合うこととなる。武術については、剣術を島田虎之助に師事した。後に藤川整斎の門下となり、直心影流免許皆伝を許される。また砲術を田付主計に、柔術と山鹿流兵学(19歳から4年間)を窪田助太郎清音(のちの講武所頭取)に師事している。天保11年(1840年)頃、田付主計の同門であった年長者の結城啓之助から開国論を聞かされ、以後影響を受ける。 天保14年(1843年)、17歳になり登城する。文武の才を注目され、若くして両御番となる。率直な物言いを疎まれて幾度か役職を変えられたが、そのたびに才腕を惜しまれて役職を戻されている。嘉永2年(1849年)、林田藩の前藩主建部政醇の娘・道子と結婚する。 嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが浦賀に来航する。その後、来航する異国船に対処する詰警備役となるが、戦国時代からの関船しか所持していない状態ではアメリカと同等の交渉はできず、開国の要求を受け入れることしかできなかった。この頃から外国との積極的通商を主張し、造船所を作るという発想を持ったと言われる。 安政2年(1855年)、父が医師の誤診により死去し、家督を相続する。安政6年、小栗豊後守を名乗る。
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