家督継承から尾張統一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:41 UTC 版)
家督継承後の信長は、すぐに困難に直面する。信秀は尾張国内に大きな勢力を有していたが、まだ若い信長にその勢力を維持する力が十分にあるとは言えなかった。そして、弾正忠家の外部には清洲城の尾張守護代・織田大和守家という対立者を抱え、弾正忠家の内部には弟・信勝(信行)などの競争者がいたのである。 一説には信秀の最晩年に行おうとした今川義元との和睦に信長が反対したことなどから信長の後継者としての立場に疑問符が持たれ、信秀も信長と信勝の間で家督の分割する考えに転じたのではないか、という説がある(実際に信秀の死の直後に信長は直ちに和議を破棄している)。ただし、この和平の仲介には信長の舅である斎藤道三を敵視する六角定頼が関与しており、信長の立場からすれば道三に不利となる条件との抱き合わせになる可能性のあるこの和議に賛同できなかったとする見方もある。 天文21年8月、清洲の織田大和守家は、弾正忠家との敵対姿勢を鮮明とした。信長は萱津の戦いで勝利し、これ以後、清洲方との戦いが続くこととなる。
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