家督譲渡
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元和7年(1621年)11月3日、輝元は松平忠輝の改易や福島正則の減転封等の事例から幕府による改易に備えて、秀就に20箇条に及ぶ長文の訓戒状を送った。主な内容としては、秀就の行状を戒めて孝行を勧め、毛利家中の者や他家の者、特に将軍や幕府に対する態度こそが肝要と心得て毛利家の存続を図るように求めるものであり、秀就も訓戒状の趣旨を承服し、即日に自筆の返書を出している。 元和9年(1623年)9月10日、江戸から帰国した秀就が萩城に入城すると、輝元は家督譲渡の儀式を行い、正式に秀就へと家督を譲渡した。このとき、輝元は病気療養中であり、同年の秀忠・家光の上洛に際しては、吉川広正をその名代として派遣した。 この元和9年の家督継承儀式により、対内的にも輝元から秀就への家督継承が完了した。だが、輝元はその後も毛利氏当主としての権限を一定は行使しており、その死まで輝元と秀就の二頭体制は続いた。
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家督譲渡
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天文6年(1537年)、経久は家督を嫡孫の詮久(後の尼子晴久)に譲っている。同年には大内氏が所有していた石見銀山を奪取している。 大友氏と大内氏の争いが続いていたこともあり(または大内氏とは表面上は和睦状態だった為)、東部への勢力を更に拡大すべく播磨守護の赤松政祐と戦い大勝する。これに政祐は一時、淡路国へと逃亡する。翌年の天文8年(1539年)、別所氏が籠城する三木城が尼子方へと寝返ったため、政祐は堺へと逃亡。これにより詮久は京へ上洛する構えを見せたが、大友氏が大内氏と和解、更には尼子氏との和睦を破棄され石見銀山を奪回された。同年、大内氏によって尼子氏から援兵を受けていた安芸尼子方の武田氏居城佐東銀山城が落城、当主・武田信実は一時、若狭国へと逃亡する。そのため、詮久は出雲国へと撤退した。 これにより大内氏との和睦は完全に破綻し、天文9年(1540年)、大内氏との早期決戦を目指し大内氏勢力下にある安芸国人の毛利氏の討伐を武田信実の要請も受け入れ詮久は出陣。周囲の形勢は尼子氏に有利であり、その軍勢は諸外国からの援兵も加わり30,000騎へと膨れ上がっていた。この大軍を率い吉田郡山城を包囲、大内との決戦に備えるも翌年には厳島神社にて戦勝祈願を終えた陶隆房率いる大内援兵20,000騎との激戦の末に敗北し、尼子氏は安芸での基盤を失った(吉田郡山城の戦い)。 天文10年(1541年)11月13日、月山富田城内で死去した。享年84(満82歳没)。
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