家督継承と世良田宿の掌握
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「新田義貞」の記事における「家督継承と世良田宿の掌握」の解説
文保2年(1318年)1月2日、父の朝氏が45歳で死去したことにより、義貞が新田氏本宗家の家督を継承し、8代当主となった。 だが、義貞が家督を継承した頃の新田宗家の地位は低かった。新田氏(上野源氏)はもともと河内源氏3代目である源義家の四男・義国の長子である新田義重に始まり、広大な新田荘を開発していたが、義貞の代には新田氏本宗家の領地は新田荘60郷のうちわずか数郷を所有していたに過ぎず、義貞自身も無位無官で日の目を浴びない存在であった。加えて、足利氏と比べると、新田氏は北条得宗家との関係が険悪で、鎌倉幕府から冷遇されていた。文保2年(1318年)10月に義貞が長楽寺再建のため、所領の一部を売却した際の書状が残っているが、それに対して12月に幕府が発給した安堵状には、売主が新田「貞義」と誤記されており、鎌倉幕府での新田本宗家の地位の低さを表している。 世良田満義や大舘家氏など、新田一門の面々も義貞同様に所領の一部を売却していた。本来であれば、手続きの折は宗家の承諾を得なければならないところだが、宗家の当主である義貞の承諾があった形跡はない。また、元亨2年(1322年)10月に大舘宗氏(家氏の子)が岩松政経に「一井郷沼水」(市野井湧水)の用水掘を打ち塞いだと訴えられた際には、両者は新田一門であるにもかかわらず義貞を無視して幕府に裁定を仰ぎ、幕府は裁許状を下している。 また、義貞は先述の文保2年(1318年)に長楽寺再建の際に、私領の一部を世良田宿の有徳人である大谷道海の娘・由良孫三郎影長の妻に売却している。大谷道海は北条得宗家ともつながりがあり、かつては単純に新田氏本宗家の経済的衰退と得宗勢力の新田荘への進出の一環として解されてきたが、そもそも一族の世良田氏の菩提寺であっても新田氏とは関係のない長楽寺の再建に関わる必要がない。また、前述のように世良田氏や大舘氏も所領を売却しているが、新田氏本宗家の売却が群を抜いていた。そこで注目されたのは、世良田宿は長楽寺の門前町で交通の要所として当時の北関東屈指の経済都市であったという事実である。当時、長楽寺を庇護していた世良田氏は衰退して長楽寺再建に積極的に関与できる状況ではなく、そこに目をつけた義貞が「売寄進」という方法で世良田の有力者である道海を介在させて長楽寺に寄進を行うことで世良田氏に代わって長楽寺及び世良田宿の庇護者となってその経済的権益の掌握を目指したもので、併せて得宗勢力との関係強化を図ったものであったとみられている。新田本宗家による世良田宿の支配は近隣の武士に対して排他的なものではなく、本宗家が世良田宿を彼らの経済活動の場として提供し、保護する「共生」関係を築くことで彼らへの影響力を強めたと考えられている。また、義貞は得宗被官(御内人)の安東氏から妻を迎えており、世良田宿の掌握による経済力の強化と得宗勢力への積極的な接近を通じて、衰退した新田氏本宗家の勢力回復に乗り出していたと考えられている。
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