島津家の存続
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薩摩に戻った義弘は、徳川に対する武備を図る姿勢を取って国境を固める一方で徳川との和平交渉にあたった。ここで義弘は、和平交渉の仲介を関ヶ原で重傷を負わせた井伊直政に依頼した。直政は徳川・島津の講和のために奔走している。また福島正則の尽力もあったとも言われる。また一方で近衛前久が家康と親しい間柄ということもあり、両者の仲介に当たったといわれる。 慶長5年9月30日(1600年11月5日)、当主出頭要請を拒み軍備を増強し続ける島津家の態度に、怒った家康は九州諸大名に島津討伐軍を号令した。黒田、加藤、鍋島勢を加えた3万の軍勢を島津討伐に向かわせるが、家康は攻撃を命令できず膠着した状態が続いた。関ヶ原に主力を送らなかった島津家には1万を越す兵力が健在であり、もしここで長期戦になって苦戦するようなことがあれば家康に不満を持つ外様大名が再び反旗を翻す恐れがあった。そのため、徳川家は交渉で決着をつけようと島津家に圧力をかけていた最中、薩摩沖で幕府が国家運営で行っていた明との貿易船2隻が襲われ沈められるという事件が起きてしまう。この事件の黒幕は島津家とされており、もし武力で島津家を潰せば旧臣や敗残兵が海賊集団を結成し、貿易による経済的基盤の脅威になるという、いわば徳川家に対する脅しをかけたとされる。こうした事態から家康は態度を軟化せざるを得ず11月12日(12月17日)、島津討伐軍に撤退を命令した。そして、慶長7年(1602年)に家康は島津本領安堵を決定する。すなわち、「義弘の行動は個人行動であり、当主の義久および一族は承認していないから島津家そのものに処分はしない」また、義弘の処遇も「わし(家康)と義久は仲がいいので義弘の咎めは無しとする」と嘯いた。こうして島津氏に対する本領の安堵、忠恒への家督譲渡が無事承認された(異説あり)。 島津家が存続したことに家康は不安を感じており、死に臨んで遺体を薩摩に向けて葬るように遺言を残したとされる。結果的にこれが薩摩藩を原動力とした討幕に繋がる。
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