島津家の存続とは? わかりやすく解説

島津家の存続

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 02:29 UTC 版)

島津義弘」の記事における「島津家の存続」の解説

薩摩戻った義弘は、徳川対す武備を図る姿勢取って国境固め一方で徳川との和平交渉あたった。ここで義弘は、和平交渉仲介関ヶ原重傷を負わせた井伊直政依頼した直政徳川島津講和のために奔走している。また福島正則尽力もあったとも言われる。また一方で近衛前久家康親し間柄ということもあり、両者仲介当たったといわれる慶長5年9月30日1600年11月5日)、当主出頭要請拒み軍備増強し続け島津家態度に、怒った家康九州諸大名島津討伐軍を号令した。黒田加藤鍋島勢を加えた3軍勢島津討伐向かわせるが、家康攻撃命令できず膠着した状態が続いた関ヶ原主力を送らなかった島津家には1万を越す兵力健在であり、もしここで長期戦になって苦戦するようなことがあれば家康に不満を持つ外様大名が再び反旗を翻す恐れがあった。そのため、徳川家交渉決着つけよう島津家圧力をかけていた最中薩摩沖で幕府国家運営行っていた明との貿易船2隻が襲われ沈められるという事件が起きてしまう。この事件黒幕島津家とされており、もし武力島津家を潰せば旧臣敗残兵海賊集団結成し貿易による経済的基盤脅威になるという、いわば徳川家対す脅しをかけたとされるこうした事態から家康態度軟化せざるを得ず11月12日12月17日)、島津討伐軍に撤退命令した。そして、慶長7年1602年)に家康島津本安堵決定する。すなわち、「義弘行動個人行動であり、当主義久および一族承認していないから島津家そのもの処分はしないまた、義弘処遇も「わし(家康)と義久仲がいいので義弘咎め無しとする」と嘯いた。こうして島津氏対す本領安堵、忠恒への家督譲渡が無事承認された(異説あり)。 島津家存続したことに家康は不安を感じており、死に臨んで遺体薩摩向けて葬るように遺言残したとされる結果的にこれが薩摩藩原動力とした討幕に繋がる。

※この「島津家の存続」の解説は、「島津義弘」の解説の一部です。
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