島津実久の台頭とは? わかりやすく解説

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島津実久の台頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 02:32 UTC 版)

島津貴久」の記事における「島津実久の台頭」の解説

加世田出水治め薩州家当主島津実久はこれに不満を持ち実久方で加治木伊集院重貞・帖佐島津昌久が叛旗翻した実父島津忠良がこれらを討っている間に、島津実久方は北薩の兵が伊集院城を、加世田・川辺など南薩の兵が谷山城を攻略し攻め落とした。さらに川上忠克を勝久のもとに送り島津勝久守護職復帰説いた。貴久は鹿児島攻撃され夜に乗じて城を出て園田実明と共に亀ヶ城退いた大永7年1527年5月に貴久は島津勝久との養子縁組解消され、勝久は守護職悔返譲渡無効)を宣言した従来、この一連の流れ近世薩摩藩によって編纂された『島津国史』などによって実久謀反として解釈され通説となっていたが、実際に守護である勝久と先代当主であった兄(忠治・忠隆)の時代からの老中家老)との間で対立があり、勝久は自分に近い者を老中として登用していた。勝久と貴久の縁組推進したのは忠良支援本宗家の立て直し図ろうとした後者働きかけによるところが大きく、勝久の積極的な意思ではなかった。これに対して久に罷免され古くからの老中は貴久との縁組反対して実久結んだのである伊集院重貞は勝久以前からの本宗家の老中であった)。このため実久挙兵見た勝久は一転して考え変えて守護職悔返図って自らの政治的権力回復乗り出したであった。 ところが、勝久と老中達の対立解消されいどころか却って深刻化し老中達は実久新たな本宗家の当主擁立する動き見せ始めその結果天文4年1535年)には老中達は実久迎え入れてクーデター起こし、勝久を追放して実久新し本宗当主薩摩守護職にして擁立したのである大隅国日向国国人中でも実久支持する動きがあり、実久一時的ではあるが名実ともに守護としての地位確立したのであるこうした事情はこの時期古文書研究から明らかになったもので、貴久による統一後作られ島津氏史書からは抹消されている)。 この間島津忠良薩摩半島南部国人衆(「南方衆」)を味方取り込んで薩摩半島掌握努めた天文2年1533年)、貴久は日置郡南郷城島津実久軍を破って初陣上げている。そんな中起きた島津本宗家クーデター発生し守護追われた勝久が再び忠良・貴久父子結んだのである一方新しく守護になった実久から見て守護所のある清水城鹿児島)は薩摩半島付け根にあり、忠良・貴久父子存在脅威であったこのため両者の間で戦いが始まるが、実久本拠地であった出水鹿児島の間には距離があり、その間には渋谷氏一族祁答院入来院東郷諸氏)の支配地域があった。忠良渋谷氏一族結んで実久牽制しのである

※この「島津実久の台頭」の解説は、「島津貴久」の解説の一部です。
「島津実久の台頭」を含む「島津貴久」の記事については、「島津貴久」の概要を参照ください。

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