島津家の反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 09:49 UTC 版)
島津義久は大友家侵略のために、日向の伊東家家臣団の攻略を開始した。島津征久らの諸将が8月に伊東家家臣団が守る日向国上野城と隈城を攻撃、9月に両城を攻略している。上野城攻略から4日後、将軍足利義昭の使者が島津家の下を訪れた。大友氏は北九州を巡って毛利氏と攻防を続けていたが、その毛利氏には織田信長によって京都から追放されていた室町幕府将軍・足利義昭が亡命していた(鞆幕府)。毛利氏が上洛に踏み切らないのは大友氏が背後を脅かしているからだと考えた足利義昭は、9月に島津氏に大友領を奪い大友氏の毛利領侵攻を止めさせるように命じる御内書を出した。これを受けた島津義久も御内書を大義名分として更なる北上を決定する。義久は島津征久ら1万の軍を北上させ再び長倉祐政、山田宗昌ら伊東家家臣団が守る石ノ城を攻撃した(石城合戦)。攻城戦は9月19日から開始されたが、29日に島津軍の攻撃に屈し伊東家籠城軍が講和を申し出た。島津軍は城兵の生命を保証し、長倉祐政、山田宗昌ら伊東家家臣団は石ノ城を明け渡すと豊後へ退去した。
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