島津家との関係
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島津光久の継室で公家の平松時庸の養女であった陽和院が松の廊下の事件について、兄の平松時量に送った「陽和院書状」という書状が現存している。陽和院は光久の継室であったため、血の繋がりはないものの、光久の孫である島津綱貴の祖母といえる立場にあり、その孫の綱貴に嫁いでいた吉良義央の娘の鶴姫とはいわば、大姑の関係にあった人物でもあった。松の廊下の事件が起こった当時、江戸にいた陽和院は京都にいた兄の平松時量に宛てて、以下のような書状を送っている。 「十四日御しろの事めつらしき事、きら殿人かわろく申候事ニて御さ候、仰せのことく再々御くたりあそハし候へとも、しせんよき時分ニて御さ候つる、何事もわれからの事とそんし候」(「十四日に江戸城で前代未聞の事件が起きました。吉良殿も(殿中で刃傷を受けるとは)体裁が悪い。(時量殿も)仰せによって何度か江戸へ下向されていますが、よい時に在京されておられました。(時量殿の京での)ご裁量の機会と私は思います。」) すでに義央の娘、鶴姫と島津綱貴とは1680年に離縁しているが、陽和院は驚き能動的な反応を示している。また、延宝8年(1680年)11月20日に島津綱貴から離縁された鶴姫はその後、実家の吉良家には戻らず、養家であり、弟である上杉綱憲のいる上杉家に戻り、上杉家白金屋敷で暮らした[要出典]。 鶴姫の元夫であった島津綱貴は元禄16年(1703年)に、鹿児島城下の島津家別邸に義央の供養施設(観音岩)を建立し供養したと伝わり、現当主の島津修久は、吉良義央の万昌院での12月14日の法要に参加すると共に、鹿児島の仙巌園(世界文化遺産)・観音岩でも翌日に供養儀式を行なっている(慰霊式は神道)。
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島津家との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 04:20 UTC 版)
島津家とは以前は敵対関係にあったが、豊臣政権時の和解以後の関係は良好で、島津家の当主・忠恒は、自身に男児が生まれない為に相良領内の願成寺へ祈祷を願い、頼房も自身の家老である犬童頼兄の嫡子・相良頼安の正室に島津家久の娘を所望するなどしており、また慶長17年(1612年)3月9日には家久が人吉へ来訪し、頼房もそれを歓待するなど、両家の関係が比較的良好な様が相良側の史料には記述されている。
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