島津家との関係とは? わかりやすく解説

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島津家との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:28 UTC 版)

吉良義央」の記事における「島津家との関係」の解説

島津光久継室公家平松時庸養女であった陽和院が松の廊下事件について、兄の平松時量送った陽和書状」という書状現存している。陽和院は光久の継室であったため、血の繋がりはないものの、光久の孫である島津綱貴祖母といえる立場にあり、その孫の綱貴に嫁いでいた吉良義央の娘の鶴姫とはいわば、大姑の関係にあった人物でもあった。松の廊下事件起こった当時江戸にいた陽和院は京都にいた兄の平松時量宛てて、以下のような書状送っている。 「十四日御しろの事めつらしき事、きら殿人かわろく申候事ニて御さ候、仰せのことく再々御くたりあそハし候へとも、しせんよき時分ニて御さ候つる、何事もわれから事とそんし候」(「十四日江戸城前代未聞事件起きました吉良殿も(殿中刃傷を受けるとは)体裁が悪い。(時量殿も)仰せによって何度江戸へ下向されていますが、よい時に在京されておられました。(時量殿の京での)ご裁量機会と私は思います。」) すでに義央の娘、鶴姫島津綱貴とは1680年離縁しているが、陽和院は驚き能動的な反応示している。また、延宝8年1680年11月20日島津綱貴から離縁され鶴姫その後実家吉良家には戻らず養家であり、弟である上杉綱憲のいる上杉家戻り上杉家白金屋敷暮らした[要出典]。 鶴姫元夫であった島津綱貴元禄16年1703年)に、鹿児島城下の島津家別邸に義央の供養施設観音岩)を建立し供養したと伝わり現当主の島津修久は、吉良義央万昌院での12月14日法要参加すると共に鹿児島仙巌園世界文化遺産)・観音岩でも翌日供養儀式行なっている(慰霊式神道)。

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島津家との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 04:20 UTC 版)

相良頼房」の記事における「島津家との関係」の解説

島津家とは以前敵対関係にあったが、豊臣政権時の和解以後の関係良好で、島津家当主・忠恒は、自身男児生まれない為に相良領内願成寺祈祷願い、頼房も自身家老である犬童頼兄嫡子相良頼安の正室島津家久の娘を所望するなどしており、また慶長17年1612年3月9日には家久人吉来訪し、頼房もそれを歓待するなど、両家の関係が比較良好な様が相良側の史料には記述されている。

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