島津大逆事件(島津ハル事件)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 05:13 UTC 版)
「島津治子」の記事における「島津大逆事件(島津ハル事件)」の解説
昭和11年(1936年)8月29日に島津治子を含む「明治神宮ミソギ会」の会員4人が不敬罪で逮捕され、俗に「島津大逆事件」「島津ハル事件」と呼ばれた。治子とともに逮捕されたのは、元代議士・高橋保の妻・むつ子、祈祷師の角田つね、皇訓教会主・富田貢の長女・倭文子で、逮捕の2年前、角田が三重県亀山で霊感により東京に島津という偉大な女性があることを知り、霊の交感を求めて上京して治子と会ったところ、同じく霊感を得ていた治子と意気投合し、治子が属していた明治神宮ミソギ会会友の高橋と富田を誘って交霊会を行なっていた。 彼らは「交霊」の最中に、「昭和天皇は前世の因縁で早晩崩御する、国体明徴惟神の道(統治権の主体は天皇にありとするもの。国体明徴声明参照)のためには高松宮を即位させるべきである」という旨の密談をしていたという理由で罪に問われたが、同年9月24日の起訴前判定で治子は「感応性精神病(祈祷性精神病)」と診断され、不起訴となる。9月22日の『木戸幸一日記』に「島津治子は検事総長(光行次郎)の意見にて警視庁にて精神鑑定をなし、病院に監置することとなり、25日に実行する筈」とあり、精神鑑定がなされる以前にすでに治子の入院が決まっていたらしいことから、治子は精神障害者でなかったか、もしくは快癒すると考えられる程度の精神病にもかかわらず起訴前鑑定にかけられ不起訴にされるという異例の措置であったことが窺える。このことから、事件は反皇室分子に異常者というレッテルを貼るためのものだったのではないかという見方もある。松本清張も著書『昭和史発掘』の中で、治子らが精神異常とされたのはでっちあげではないかと推測している。清張はこの事件から小説『神々の乱心』(未完)も創作している。 昭和11年(1936年)3月22日に検挙された、元海軍予備大佐で、神政龍神会責任者である矢野祐太郎(48歳)は、昭和13年(1938年)に獄死する。同昭年8月22日夜、悲報を聞いた長男と中里弁護士が遺体を引き取りに向かったところ、引き渡しを拒否されたが、翌日の午後まで抗議をしたところ、死因を詮索しないことを条件に、遺体を引き渡されることになった。矢野の遺体はあちこちに斑点が浮き出ており、それは明らかに毒物による症状だった。
※この「島津大逆事件(島津ハル事件)」の解説は、「島津治子」の解説の一部です。
「島津大逆事件(島津ハル事件)」を含む「島津治子」の記事については、「島津治子」の概要を参照ください。
- 島津大逆事件のページへのリンク