島津家と島津荘意識の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 10:01 UTC 版)
島津氏は、初代島津忠久が鎌倉で活動してそこで生涯を終え、二代目島津忠時も同様に鎌倉で没している。三代目島津久経が元寇を機に下向して以来、南九州への在地化が本格化し、四代目島津忠宗は島津氏として初めて薩摩の地で没した。島津家当主で南九州に土着したことが確認できるのは五代目島津貞久以降である。碇山城(薩摩川内市)に貞久の守護所が置かれていたという。 三カ国守護職を回復した島津貞久や重臣には、三カ国は名字の地である島津荘内の国々という意識が形成される。名字の地島津荘はすなわち薩摩・大隅・日向の三州とする支配を正当化する意識である。南北朝時代、守護職等を分割相続された相州家の島津師久-島津伊久と奥州家の島津氏久-島津元久の両島津家は、この意識に基づき、領国経営の維持・拡大の行動を取っていった。
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