弾正忠家とは? わかりやすく解説

清洲三奉行

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/27 20:18 UTC 版)

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清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)とは、戦国時代の尾張国守護代、清洲織田氏(大和守家)に仕える奉行三家のことを指す。

発生

尾張守護代である織田氏は元々は尾張守護でもある管領の斯波武衛家の家臣であったが、応仁の乱における斯波氏の内紛に派生する混乱のため分裂しており、それぞれが主家の斯波氏を凌ぎ戦国大名化した。戦国時代において、清洲三奉行が仕える清洲織田氏(大和守家)は清洲城を本拠に守護斯波氏を奉じ尾張下4郡を支配下に治めており、もう一つの岩倉織田氏(伊勢守家)は岩倉城を本拠とし尾張上4郡を治めていた。清洲三奉行体制の成立時期については不明だが、織田達勝が守護代の時期に、「織田家三奉行奉書」なる文書が残っており、少なくともそれ以前には成立していたと考えられる。当時の尾張においては、守護の斯波義達織田達定(達勝の先代)が対立し、達定が自刃に追い込まれるという事件が発生しており、新守護代の達勝の下で新体制を構築する必要があったと推測できる。 三奉行の他に、清洲城には小守護代の坂井大膳がいた。

戦国時代初期の尾張の支配体制

守護        斯波氏
          ┃
      ┏━━━┻━━┓
守護代 清洲織田氏  岩倉織田氏  
      ┃
配下  清洲三奉行

尾張国守護代家

清洲織田氏(大和守家)と岩倉織田氏(伊勢守家)に分かれたのは織田敏定織田敏広の代の和約に基づくとされる。『信長公記』によると、清洲織田氏が尾張の下四郡を治め、岩倉織田氏が尾張の上四郡を治めたとされるが、当初は嫡流であった岩倉織田氏の方が優勢であったとされる。

清洲三奉行家

  • 因幡守家  -織田広長?-織田広貞?-織田広延-…-織田達広?-織田広信(信友?)

因幡守家

因幡守家は、系譜ははっきりしないが早い段階で分かれた一族とされる。初めて名が明らかになるのは、清洲宗論の際、奉行人として名を連ねた織田広長、織田広貞らであった。広貞という人物は広長の子であるとされ、織田家三奉行奉書において、文書に名を連ねる織田広延も、広長の子にあたるとされる。最後の清洲織田氏当主の織田信友(彦五郎)は達勝の養子で別名広信といい、因幡守家出身とされることもある。

藤左衛門家

藤左衛門家は、織田家三奉行奉書において名を連ねている織田良頼が代表的な人物である。良頼は弾正忠家の信定の岳父であり、良信と同世代の人物と推測される。清洲宗論に名がみえる織田良縁との関係や藤左衛門家の系図にある織田常寛織田久長の子か)との関係は不明である(良縁と良頼が父子で、常寛は良頼と同一人物であるとも)。藤左衛門家は信定に嫁いだ良頼の娘が没した後、一時達勝と共に弾正忠家と敵対するが、やがて弾正忠家に従うようになったらしく、小豆坂の戦い加納口の戦いに参加している。

小田井城城下の東雲寺を菩提寺とし、現在でも子孫津田氏の菩提寺となっている。

弾正忠家

弾正忠家の元々の系譜は定かではないが、『満済准后日記』によれば、室町時代、当時の守護代である織田伊勢守入道常松の家臣に織田弾正なる人物がいたことが分かっており、長禄年間の斯波家家老にも織田弾正忠とある(『朝倉家録』)。その子孫がのちの清洲三奉行の一家である弾正忠家と推測されている。弾正忠家ではじめて名が明らかになるのは初代織田良信であるが、清洲宗論において奉行職の一人を務めたことが伝わるのみである。良信は『信長公記』にある西巌ではないかと推測されている。また、清巌という法名をもつ岩倉城主・織田敏信の子(又は同一人物)と推測されることもある。西巌の次代にあたる織田信定(月巌)は勝幡城を中心に津島熱田を勢力下におくなど力をつけ、これ以降、弾正忠家は「勝幡織田氏」とも称されるようになった。織田家三奉行奉書は信定の文書の初見であるとされるが、その後信定が独自に発給した文書も存在している。その子の織田信秀(桃巌)の代には力をつけ戦国大名化し、主家に対抗するようになった。信秀の代において、軍事面においては主家をしのいでいたものの、統治面においては守護・守護代に服従せざるを得なかった。信秀の死後、織田弾正忠家の一族内部も含めた織田氏内部の抗争が再発するが、信秀の子の織田信長(泰巌)は一族の内紛を鎮め、守護代・清洲織田氏の織田信友を討ち、さらにもう一つの守護代・岩倉織田氏の織田信安信賢らを追放し、さらにその途上において守護の斯波義銀をも追放、その他反抗する織田氏一族もすべて滅亡・追放・自刃させ、尾張国統一を成し遂げている。

系図

因幡守家

広長
 
広貞
 
広延
 
 
達広
 
広信
(信友?)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
広延
 

藤左衛門家

久長
 
良縁?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
常寛
 
良頼?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寛故
 
寛貞
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寛維
 
信張
 
 
 
 
 
 
 
 
元綱
 
信直
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信氏
 
忠辰
  • 常寛は良頼と同一人物ともされる。また、良頼の父は織田良縁ともされ、藤左衛門家の系図も判然とはしない。
  • 常寛以降小田井城に居城したことから小田井織田氏とも言われる。


弾正忠家 - (織田氏#系譜を参照

外部リンク


弾正忠家

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清洲三奉行」の記事における「弾正忠家」の解説

弾正忠家の元々の系譜定かではないが、『満済准后日記によれば室町時代当時守護代である織田伊勢守入道常松家臣織田弾正なる人物がいたことが分かっており、長禄年間斯波家家老にも織田弾正忠とある(『朝倉家録』)。その子孫がのちの清洲三奉行一家である弾正忠家と推測されている。弾正忠家ではじめて名が明らかになるのは初代織田良信であるが、清洲宗論において奉行職一人務めたことが伝わるのみである。良信は『信長公記』にある西巌ではないか推測されている。また、清巌という法名をもつ岩倉城主・織田敏信の子(又は同一人物)と推測されることもある。西巌の次代にあたる織田信定(月巌)は勝幡城中心に津島熱田勢力下におくなど力をつけ、これ以降、弾正忠家は「勝幡織田氏」とも称されるようになった織田家三奉行奉書信定文書初見であるとされるが、その後信定独自に発給した文書存在している。その子織田信秀巌)の代には力をつけ戦国大名化し、主家対抗するようになった信秀の代において、軍事面においては主家しのいでいたものの、統治においては守護守護代服従せざるを得なかった。信秀死後織田弾正忠家一族内部含めた織田氏内部抗争再発するが、信秀の子織田信長(泰巌)は一族内紛鎮め守護代清洲織田氏織田信友討ち、さらにもう一つ守護代岩倉織田氏織田信安・信賢らを追放し、さらにその途上において守護斯波義銀をも追放、その他反抗する織田氏一族もすべて滅亡追放自刃させ、尾張国統一成し遂げている。

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