弾正忠家の当主を名乗る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 02:49 UTC 版)
しかし、天文22年(1553年)10月、信行は信長の関与なしで独自に判物を発給した。信行が港町・熱田の豪商である加藤家のうち東加藤家にたびたび判物を発給した一方で、信長も同じく西加藤家に判物を発給していることから、商業地である熱田の権益を巡って両者が争っていたことが伺える。 天文23年(1554年)4月頃、守護代・織田大和守家は、信長と叔父の織田信光の共同作戦によって滅ぼされた。信光も同年11月に暗殺されて、弾正忠家内部の争いから脱落した。 この頃、信行(信勝)は達成と改名した。改名の時期は、残された文書から、天文22年(1553年)10月から天文23年(1554年)11月22日のあいだのいずれかの時点だと推定される。この名のうち「達」の字は守護代の織田大和守家の当主の名との関連性が指摘され、信行もそのことを意識して改名したと思われる。これについて、信行が、滅亡した守護代家の役割の代行を表明したという見方もある。 同じ頃、信行は官途名として「弾正忠」を名乗った。これにより信行は自分こそが弾正忠家の当主であるという立場をとったと考えられる。対して、信長は尾張守護の子である斯波義銀を擁立した。こうして信行と信長は対決の道を進んだ。
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