織田弾正忠家の台頭と織田信長の出現
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「織田氏」の記事における「織田弾正忠家の台頭と織田信長の出現」の解説
このような中で急速に台頭を果たしてきたのが、清洲織田氏の三家老の一つ、織田弾正忠家の織田良信・信定父子であり、海東郡津島に居館を構えて交易を押さえ、海西郡や中島郡を侵食して勢力を伸ばし、勝幡城(海東郡、中島郡)などを築城した。大永7年(1527年)、織田信定がその子の織田信秀に家督を譲った頃には弾正忠家は主家を凌ぐ力をつけており、今川那古野氏の今川氏豊から那古野城(愛知郡)を奪うなど信秀は更に勢力を拡大し、美濃国では斎藤道三と、三河国では松平清康・広忠や、駿河守護の今川義元と抗争した。 その子・織田信長は、父の没後に起こった織田家の内紛を鎮める一方で、名目上の主君であった斯波義統が守護代・織田信友により殺害されると、斯波義銀を奉じて清洲織田氏(大和守家)を滅ぼし、更に岩倉織田氏(伊勢守家)も滅ぼし、後に斯波義銀も追放した。さらに尾張へ進出してきた今川義元を桶狭間の戦いで破り、尾張知多郡や三河碧海郡を擁する水野氏や、岡崎城を中心に三河一帯を制した徳川氏と同盟を結び、さらに甲斐国の武田氏とも友好的関係を築いた。 信長はこうした外交的安定を背景に美濃・伊勢へ勢力を広げ、上洛し将軍・足利義昭を擁立する。信長は義昭と連携し中央政権としての影響力を誇示していたが義昭はやがて独自性を強め、近江国の浅井長政や越前国の朝倉義景、さらに本願寺や甲斐国の武田信玄ら反信長勢力を迎合し信長に対抗する(信長包囲網)。元亀年間には武田信玄が西上作戦を行い遠江・三河へ侵攻するが信玄の死去により作戦は中止され、反信長勢力は各個撃破され、将軍義昭は山陽道の備後国へ追放され、室町幕府の滅亡により織田政権が樹立される。 その後も信長は家臣を各方面へ派兵して統一事業を進めるが、天正10年には本能寺の変において家臣の明智光秀に攻められ自害。この際、信長の嫡男で織田氏の当主であった織田信忠も二条城で自刃したため、政権の中核となるべき人物を失った織田政権は崩壊した。 勝幡織田氏(弾正忠家)織田敏信(清厳)? 織田良信(材厳)? 織田信定(月厳) 織田信秀(桃厳) 織田信長(泰厳) 織田信忠(仙厳) 織田秀信(圭厳)
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