織田政権における取次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/21 18:07 UTC 版)
「取次 (歴史学)」の記事における「織田政権における取次」の解説
永禄12年(1569年)、織田信長は家臣木下藤吉郎(豊臣秀吉)を、当時は対等な戦国大名であった毛利氏とのあいだの外交交渉を命じられており、この任務は、史料には「申次」と表記されている。のちに秀吉は中国攻めの総司令官となるが、織田政権にあっては、他の戦国諸大名とのあいだの取次には、その方面の担当司令官があたるケースが多かった。 天正9年(1581年)、下野国の領主皆川氏は信長に馬を献上したが、その橋渡しをしたのが徳川家康であった。馬献上に際し、当主皆川広照は信長に使節を派遣したが、それを取り次いだのが信長側近の堀秀政であり、使節帰還における通行旅程の安全を担当したのは、翌天正10年(1582年)に東国の「取次」を信長に任じられる滝川一益であった。
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