織田時代
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天正5年(1577年)3月、15歳で紀州征伐に加わり初陣を飾る。10月に信長から離反した松永久秀の武将・森秀光が立て籠もる大和国片岡城を父やその僚友・明智光秀と共に落とし(信貴山城の戦い)、10月2日、信長直筆の感状を受けた。 天正6年(1578年)に元服。信忠より偏諱を受け、忠興と名乗った。また、同年8月には信長の仲介を受けて、光秀の三女・玉子(ガラシャ)と勝竜寺城で結婚する。主君信長の構想に基づく命令による婚姻であったことに特徴がある。 なお、信長が天正6年8月11日に明智光秀に出した判物があり(『細川家記』)、光秀の軍功を激賛、幽斎の文武兼備を称え、忠興の武門の棟梁としての器を褒めた内容で、それらの実績を信長が評価したうえで進めた政略結婚であったことが知られるが、ただ懸念されるのは、この判物の文体が拙劣であり、戦国期の書式と著しく異なっている。このことから偽作の可能性が高い古文書とされている。 天正7年(1579年)には信長の命を受けて、父や光秀と共に丹後国守護だった建部山城主・一色義道を滅ぼした。 天正8年(1580年)、父・藤孝は功により丹後南半国の領主となる(北半国は一色満信の領国)。 天正9年(1581年)の京都御馬揃えにも若年ながら一色満信らとともに参加する。この際に信長が着た「蜀紅錦の小袖」は、忠興が京で探し求めて信長に献上したものだという(『信長公記』)。
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織田時代
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その後、義賢と義治は甲賀郡北部の石部城に拠点を移して信長に対してゲリラ的に抵抗した(これは過去の室町幕府の六角氏征伐の際に六角高頼の取った戦術と同様である)。そして、永禄13年(元亀元年・1570年)に金ヶ崎の戦いで信長が朝倉義景に敗れたという情報を入手すると挙兵するが野洲河原の戦いで柴田勝家率いる織田軍に敗北、朝倉軍が近江に侵攻すると再び挙兵するが再度敗れて、同年11月には観音寺城などの主要部を取り返せないまま信長と和睦した(志賀の陣)(この和睦は一時的であったものとは言え、観音寺城を奪われたまま和睦したことは事実上の降伏で、大名としての六角氏の滅亡とする評価がある)。 その後も義賢と義治は何度か挙兵を試みており、天正2年(1574年)4月に石部城が落城すると甲賀郡南部の信楽に逃れてさらに抵抗を続けたが、次第に歴史の表舞台から遠ざかることとなった。
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