織田政権の四国進出とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 織田政権の四国進出の意味・解説 

織田政権の四国進出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 14:17 UTC 版)

四国攻め」の記事における「織田政権の四国進出」の解説

1585年天正13年5月4日秀吉黒田孝高四国攻め先鋒として淡路に出るよう命じ、また一柳直末には明石待機するよう命じた8日秀吉四国出陣準備として、羽柴秀長に対して和泉紀伊船舶の数を調査するよう命じた。また同日紀伊の国白樫氏・玉置氏に対して四国攻め準備と船の手配を命じた。これに従って秀長は翌9日、船数調査の実施紀伊和泉の船を同月27・28日までに紀ノ湊(現和山市)へ集結させることを命令している。 6月秀吉四国への出陣決定し淡路から阿波備前から讃岐安芸から伊予三方向から四国への進軍命じた当初秀吉6月3日四国出陣の日に予定していたが、越中佐々成政がなお健在であり、また病を得たため自身出馬諦め、代わって弟の羽柴秀長総大将副将を甥の羽柴秀次定めた6月16日秀吉岸和田城に在陣しつつ、秀長以下の諸将四国侵攻させた。 元親は、この年の春より秀吉侵攻備え土佐勢6,000を含む2万から4軍勢動員した5月には四国4ヶ国の境にあり各方面連絡取れ阿波西端白地城に元親の本陣を置き、全軍督戦した。また羽柴方が阿波方面から侵攻することは長宗我部側も予測しており、阿波諸城重臣らを配置して防備固めていた。また讃岐でも植田城(現高市)を築いた。 この戦い最中7月秀吉関白就任した以後四国攻め天下平定戦争一環という色合い強める。

※この「織田政権の四国進出」の解説は、「四国攻め」の解説の一部です。
「織田政権の四国進出」を含む「四国攻め」の記事については、「四国攻め」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「織田政権の四国進出」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「織田政権の四国進出」の関連用語

織田政権の四国進出のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



織田政権の四国進出のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの四国攻め (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS