織田政権の四国進出
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1585年(天正13年)5月4日、秀吉は黒田孝高に四国攻めの先鋒として淡路に出るよう命じ、また一柳直末には明石で待機するよう命じた。8日、秀吉は四国出陣の準備として、羽柴秀長に対して和泉・紀伊の船舶の数を調査するよう命じた。また同日紀伊の国人白樫氏・玉置氏に対しても四国攻めの準備と船の手配を命じた。これに従って秀長は翌9日、船数調査の実施と紀伊・和泉の船を同月27・28日までに紀ノ湊(現和歌山市)へ集結させることを命令している。 6月、秀吉は四国への出陣を決定し、淡路から阿波・備前から讃岐・安芸から伊予の三方向から四国への進軍を命じた。当初秀吉は6月3日を四国出陣の日に予定していたが、越中の佐々成政がなお健在であり、また病を得たため自身の出馬を諦め、代わって弟の羽柴秀長を総大将、副将を甥の羽柴秀次と定めた。6月16日、秀吉は岸和田城に在陣しつつ、秀長以下の諸将を四国へ侵攻させた。 元親は、この年の春より秀吉の侵攻に備え土佐勢6,000を含む2万から4万の軍勢を動員した。5月には四国4ヶ国の境にあり各方面と連絡が取れる阿波西端の白地城に元親の本陣を置き、全軍を督戦した。また羽柴方が阿波方面から侵攻することは長宗我部側も予測しており、阿波諸城に重臣らを配置して防備を固めていた。また讃岐でも植田城(現高松市)を築いた。 この戦いの最中の7月、秀吉は関白に就任した。以後、四国攻めは天下平定戦争の一環という色合いを強める。
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