一宮成祐時代
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阿波国が細川氏に代わって三好氏が支配すると、一宮氏は三好氏と姻戚関係を結んで、一宮城の12代城主一宮成祐(小笠原成助)の時には、三好家臣団の中でも重要な地位を占める事になる。しかし三好長治が阿波国の国主となると、三好家臣団の重鎮であった篠原長房が上桜城の戦いで討ち取られ家臣団も分裂状態になる。天正5年(1577年)3月、三好長治は細川真之を討伐するため荒田野の戦いとなったが、細川真之に応じて伊沢頼俊、一宮成祐らが兵を挙げ、三好長治軍の背後を脅かした。そして三好軍が勝瑞城に引き揚げる途中、今切城に入城した三好軍を2千兵で包囲、3日間の攻防戦の上、今切城から脱出した三好長治を追いつめ、同年3月18日朝自害させた。この報を聞いた三好長治方の矢野国村は、勝瑞城で謀をめぐらし同年4月に伊沢頼俊の陣に攻めかけ滅ぼした。一宮成祐は孤立状態となり、香宗我部親泰を頼り長宗我部元親と誼を通じた。 これをうけ同年春頃に長宗我部元親は阿波国に侵攻、大西城を奪取した。威勢に乗った一宮成祐は、同年9月に勝瑞城に向けて一旦進軍したものの、宮城梅雪の言をうけ一宮城に帰城する。その最中、淡路軍が横合いから攻撃してきたが、一宮成祐はこれを破った。篠原自遁はこの状況を打開するため、紀伊国、淡路国の援軍をうけ7千の兵で一宮城を攻城した。この状況を不利と悟った一宮成祐は、一宮城を去り焼山寺に引き籠った。翌天正6年(1578年)正月、十河存保が勝瑞城の城主となったが、翌天正7年(1579年)12月脇城下で十河存保は打撃をうけ敗退、これが切っ掛けとなり一宮成祐は一宮城に帰城した。 天正8年(1580年)正月、一宮成祐は十河存保を忙殺しようとしたが、この事を察知した十河存保は十河城に逃れ、一宮成祐は念願の勝瑞城の城主となった。しかし翌天正9年(1581年)7月織田信長の命で十河存保は、長宗我部元親方の西庄城を攻め落とし、勝ちに乗じて勝瑞城を奪還し一宮城も攻めたが、一宮城は堅く安易には抜けず一宮成祐もよく防いだ。同年9月、長宗我部元親の名代が十河存保と面会し、2万余騎を率いて援軍に駆けつけると聞き、十河存保は囲みを解いて退却した。 翌天正10年(1582年)5月、三好康長は高屋城の戦いで織田信長に帰服し、織田政権の四国進出の先軍として阿波国に入国し、十河存保と共に一宮城と夷山城を収めた。ところが同年6月2日本能寺の変がおきると三好康長は急ぎ京に上がった。この機会を好機ととらえた長宗我部元親は2万3千兵を挙げて阿波国に侵入し、中富川の戦いで十河存保軍を破り阿波国を平定した。 一宮成祐は中富川の戦いで土佐勢の先鋒として活躍したが、長宗我部元親のもとに三好康長と一宮成祐が通じていたことが耳に入った。同年11月7日に恩賞の打ち合わせと偽って一宮成祐を夷山城に招いた。一宮成祐は数名の部下を引き連れて夷山城に向ったが、その途中長宗我部元親の家臣畑弥助の隊が一宮成祐を襲った。一旦は逃げたが次第に追い詰められ自害した。長宗我部元親は後の憂いを無くすため新開道善、細川真之など阿波国に招き入れた武将をことごとく殺害していった。
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