一宮成祐時代とは? わかりやすく解説

一宮成祐時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/13 04:32 UTC 版)

一宮城 (阿波国)」の記事における「一宮成祐時代」の解説

阿波国細川氏に代わって三好氏支配すると、一宮氏は三好氏姻戚関係結んで一宮城12城主一宮成祐小笠原成助)の時には三好家臣団の中でも重要な地位占める事になる。しかし三好長治阿波国国主となると三好家臣団の重鎮であった篠原長房上桜城の戦い討ち取られ家臣団分裂状態になる。天正5年1577年3月三好長治細川真之討伐するため荒田野の戦いとなったが、細川真之に応じて伊沢頼俊、一宮成祐らが兵を挙げ三好長治軍の背後脅かした。そして三好軍が勝瑞城引き揚げる途中今切城入城した三好軍を2千兵で包囲3日間の攻防戦の上今切城から脱出した三好長治追いつめ、同年3月18日自害させた。この報を聞いた三好長治方の矢野国村は、勝瑞城で謀をめぐらし同年4月伊沢頼俊の陣に攻めかけ滅ぼした一宮成祐孤立状態となり、香宗我部親泰頼り長宗我部元親と誼を通じた。 これをうけ同年春頃に長宗我部元親阿波国侵攻大西城奪取した威勢乗った一宮成祐は、同年9月勝瑞城向けて一旦進軍したものの、宮城の言をうけ一宮城帰城する。その最中淡路軍が横合いから攻撃してきたが、一宮成祐はこれを破った篠原自遁はこの状況打開するため、紀伊国淡路国援軍をうけ7千の兵で一宮城攻城した。この状況を不利と悟った一宮成祐は、一宮城去り焼山寺に引き籠った。翌天正6年1578年正月十河存保勝瑞城城主となったが、翌天正7年1579年12月脇城下で十河存保打撃をうけ敗退、これが切っ掛けとなり一宮成祐一宮城帰城した。 天正8年1580年正月一宮成祐十河存保忙殺ようとしたが、この事を察知した十河存保十河城逃れ一宮成祐念願勝瑞城城主となった。しかし翌天正9年1581年7月織田信長の命で十河存保は、長宗我部元親方の西庄城を攻め落とし勝ちに乗じて勝瑞城奪還し一宮城攻めたが、一宮城堅く安易に抜けず一宮成祐もよく防いだ同年9月長宗我部元親名代十河存保面会し2万余騎を率いて援軍駆けつける聞き十河存保囲み解いて退却した。 翌天正10年1582年5月三好康長高屋城の戦い織田信長帰服し、織田政権の四国進出の先軍として阿波国入国し十河存保と共に一宮城夷山城収めた。ところが同年6月2日本能寺の変がおきると三好康長急ぎ京に上がった。この機会好機とらえた長宗我部元親2万3千兵を挙げ阿波国侵入し中富川の戦い十河存保軍を破り阿波国平定した。 一宮成祐中富川の戦い土佐勢の先鋒として活躍したが、長宗我部元親のもとに三好康長一宮成祐通じていたことが耳に入った同年11月7日恩賞打ち合わせ偽って一宮成祐夷山城招いた一宮成祐数名部下引き連れて夷山城に向ったが、その途中長宗我部元親家臣弥助の隊が一宮成祐襲った。一旦は逃げた次第追い詰められ自害した長宗我部元親は後の憂い無くすため新開道善細川真之など阿波国招き入れた武将ことごとく殺害していった。

※この「一宮成祐時代」の解説は、「一宮城 (阿波国)」の解説の一部です。
「一宮成祐時代」を含む「一宮城 (阿波国)」の記事については、「一宮城 (阿波国)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「一宮成祐時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「一宮成祐時代」の関連用語

1
6% |||||

一宮成祐時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



一宮成祐時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの一宮城 (阿波国) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS