織田氏との同盟破棄・信長との決別とは? わかりやすく解説

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織田氏との同盟破棄・信長との決別

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 21:24 UTC 版)

毛利輝元」の記事における「織田氏との同盟破棄・信長との決別」の解説

天正4年1576年2月将軍足利義昭紀伊国畠山領を経て毛利氏領国備後・鞆に動座してきた。同月8日には義昭は元春に命じて、輝元に幕府復興依頼した。だが、この動座毛利氏何一つ連絡なく行われたものであって信長との同盟関係上、義昭動座避けなければならない事態であり、輝元はその対応に苦慮した。 輝元と信長先の軍事衝突後、同盟維持する方向で話を進めていた。ところが、信長播磨逃れた浦上宗景庇護して軍事支援行い先の衝突では浦上氏三村氏支援消極的だったにもかかわらず一転して方針転換させ、毛利氏との軍事対決辞さない態度示したまた、先の衝突信長予想反して早期決着したため、信長毛利氏宇喜多氏同盟警戒するようになっていた。さらに、天正3年以降信長毛利氏への包囲網構築するため、近衛前久九州下向させ、大友氏伊東氏相良氏島津氏和議図ろうとしていた。 輝元と信長の関係は悪化していたとはいえ表面両者同盟関係継続されており、毛利氏義昭受け入れないことは信長とも約束されていたことで、それを破ることは重大な背信行為であった。だが、義昭下向先の衝突以降浦上氏領国という緩衝地帯なくなった両者軍事的緊張高まっていた中で、決定的な亀裂生じさせた。義昭自身信長が宗景に備前播磨美作統治認め朱印状出したことや、宗景が播磨逃亡し以降の対応から、信長の輝元に対する「逆心」は明確であると述べており、同盟は既に破綻していると考えていた。 輝元は信長義昭との間に揺れ動いた末、4月義昭要請応じ5月7日には反信長として立ち上がり13日領国諸将義昭命令を受けることを通達し西国東国大名らにも支援求めた。これにより、輝元は信長との関係を断ち織田氏との同盟破棄することとなった。輝元自身信長領国への介入から疑心駆り立てられ信長との関係修復が困難であると判断した考えられている。 輝元ら毛利氏庇護されていたこの時期室町幕府は、「鞆幕府」とも呼称される。義昭筆頭とする鞆幕府は、かつての奉公衆など幕臣織田氏敵対して追われ大名の子弟らが集結し総勢100名以上から構成されていた。 輝元自身鞆幕府において、義昭から将軍に次ぐ地位たる副将軍任じられている。また、輝元は副将軍として義昭庇護することにより、毛利軍公儀軍隊中核として位置づけ西国諸大名の上意に君臨する正統性確保したまた、義昭は鞆に滞在中、輝元に足利氏家紋たる桐紋与えている。

※この「織田氏との同盟破棄・信長との決別」の解説は、「毛利輝元」の解説の一部です。
「織田氏との同盟破棄・信長との決別」を含む「毛利輝元」の記事については、「毛利輝元」の概要を参照ください。

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