以降の対応
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予定されていた4月12日の豊橋公演では、サンミュージックの先輩・早見優がアメリカでの仕事をキャンセルして代役を務めた[要ページ番号]。鶴岡公演では森田健作が伊藤つかさと共に代役を務め、大阪公演は中止となった。 5月14日に発売予定だったシングル「花のイマージュ」と、コンサートの模様を収めたビデオは商品化が中止となった。これはサンミュージック側が予定通りの発売を要請したのに対し、キャニオンレコード側が難色を示したためである。「花のイマージュ」は13年後の1999年、CDアルバム『メモリアルBOX』内に収録されたが、コンサート映像は2021年現在も商品化されていない。 書籍でも、アルバムと同名の写真集『ヴィーナス誕生』(ポニカ出版)が4月4日に発売されたばかりだったが、全て回収された。また、雑誌『中一時代』(旺文社)では1986年4月号から岡田が執筆した小説を連載予定であったが、打ち切りとなった。オリコンは4月28日号を緊急追悼号とした。 その一方で、岡田のプロマイドの販売は続けられ、ランキングの上位5位から落ちたことはなかった。プロマイド販売店「マルベル堂」常務・三ツ澤博は「第二の赤木圭一郎になるだろう」と語った。 自殺の原因については様々な噂が出たものの、真相は不明である。岡田が相澤宅で下宿していた時期と重なる桑田靖子・滝里美・橋本美加子は女性週刊誌『週刊明星』(集英社)の取材で、岡田の多忙による睡眠不足や男性との交際が苦手だったこと、好きな芸能人については語ったものの、岡田が悩んでいることには気付かなかったという。2000年(平成12年)には、岡田の元チーフマネージャーであった取締役制作部長が首吊り自殺をしている。 2013年(平成25年)12月10日放送の単発特別番組枠『カスペ!』(フジテレビ)では、サンミュージック社長・相澤の死去までの10日間を追ったドキュメンタリー『独占! 昭和芸能界の真実 アイドル発掘王・相澤秀禎』が放送され、「伝説の美少女アイドル」として岡田の話題も取り上げられた。そこでは、相澤が岡田の死を止められず生涯悔やんでいたこと、岡田がサンミュージックの後輩・酒井法子にプレゼントしていた写真パネルを社長室に飾っていたこと(後述)、毎年手帳を新調するごとに岡田の写真を表紙裏に貼って絶えず持ち歩いていたことが紹介された。 没してなお忘れられず慕われ続けている理由について、岡田と同じ1967年生まれの南野陽子は「誰かと結婚したわけでもない。劣化したと思われることもない。絶対に裏切らない、永遠の18歳だからでは」と述べた。岡田へ楽曲を提供した竹内まりやは「シングルの売れ行きだけなら上回った人は何人もいる。しかし、爽やかに登場し「さぁこれから」という時にたった3年で姿を消した歌手というのは空前絶後。ファンに夢を運び、純粋にアイドルを応援する喜びもファンに与えたが、同時にアイドルがアイドルでいることの難しさや孤独を投げかけた。いなくなってさらに存在が大きくなった希有な存在」と、音楽評論家の高橋修は「時はあたかも素人っぽさが売りのおニャン子クラブが人気絶頂。岡田有希子(の死)と共に、プロのアイドル歌手の時代も終わってしまったのだ」と評した。中森明菜は夕刊フジで担当していた連載エッセイ『ふかしぎ歌姫』第21回(1995年2月10日付け)で“自分に何かしてあげられることはなかったのか、今でも悔やまれる”と記した。小泉今日子もエッセイ『原宿百景』中で、名こそ出さなかったが言及している。岡田と同じ1984年に歌手デビューの荻野目洋子は、2022年現在も墓参りを続けている。 「永遠のアイドル」と慕うファンからの献花が絶えることはなく、祥月命日(誰が言い出したのか不明だが「佳桜忌」(けいおうき)と呼ばれる)には墓前や現場にファンが集まり在りし日を偲んでいる。島倉りか(BEYOOOOONDS)、小林あさひ(Little Glee Monster)など、没後に知ってファンになったという者もいる。
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