以降の活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/06 16:16 UTC 版)
「イングランド (護衛駆逐艦)」の記事における「以降の活動」の解説
イングランドは1944年の夏の間、拠点建設が必要な場合の護衛、北の日本軍支配地域への侵攻準備、太平洋南西部の島々にいる駐留部隊への補給といった任務のためにソロモン諸島北部のいたるところで活動した。8月にイングランドはマヌス島で修理を行い、9月24日から10月15日にかけてトレジャリー諸島からオーストラリアのシドニーまで航海を行う。10月18日にイングランドはトレジャリー諸島からホーランディアへ船団護衛を実施して到着、そして26日には新たに侵攻したレイテ島への増援を乗せた船団を護衛した。その後イングランドはマヌス島に戻り、12月2日まで周辺での護衛任務を行った。 1945年1月2日から、イングランドは空母機動部隊の主要な作戦拠点であり、後には硫黄島や沖縄への侵攻にあたっての集結地となったウルシー環礁とマヌス島間の船団護衛任務に参加した。2月にイングランドはコッソル水道に向かい、フィリピンを目指していた船団を通過させ、それからマヌス島とウルシー環礁間の護衛任務に復帰した。3月23日にウルシー環礁を出港し、沖縄への上陸前砲撃支援のために沖縄へ向かう。それから2隻の巡洋艦を護衛するためにウルシー環礁へ戻った。4月1日の最初の戦闘直後、第5艦隊に加わるために巡洋艦を護衛しながら沖縄へ向かった。4月6日から17日の間、イングランドは空荷の輸送船団を護衛しながらサイパン島へ航海し、その後慶良間諸島北方の海域を警戒するために移動した。 1945年5月9日、その海域で警戒任務中だったイングランドは3機の日本軍の急降下爆撃機に攻撃された。イングランドの対空砲火は最初の1機を炎上させたが、その敵機はそのままイングランドの右舷側艦橋直下に突入した。そのカミカゼの操縦士は、重要な艦体中央部を破壊して可能な限り士官を殺傷すべしという指導を心得ていた。搭載されていた爆弾は激突直後に炸裂したため、戦闘空中哨戒(CAP)の友軍機が他の2機を撃墜する間、イングランドの乗員たちは乗艦を救うための消火活動という危険な闘争に放り込まれることになった。イングランドは37名の死者・行方不明者と25名の負傷者を出して慶良間諸島に曳航された。 イングランドは本国へ帰還する長期航海に耐えうるための応急修理を行う目的でレイテ島に向かった。1945年7月16日、イングランドは本格的な修理を行うためフィラデルフィアに到着し、高速輸送艦(APD)への改造工事が合わせて実施された。しかし終戦に伴い工事は中止された。修理するには損傷が大きすぎ、また同じ艦種がすでに余剰となっていたことが工事中止の理由であった。イングランドは1945年10月15日に退役し、1946年11月26日にスクラップとして売却された。
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