1980年以降の活動
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「セント・ヘレンズ山」の記事における「1980年以降の活動」の解説
1980年から1986年にかけて、セント・ヘレンズ山は活発に活動を続けた。火口には新たな溶岩ドームが形成され、多数の小爆発を伴いながら溶岩ドームは成長を続けた。 1980年から1981年にかけての冬から、火口の影に形成された馬蹄型の氷河が成長を始めた。1982年3月19日の噴火ではこの氷河が融け、火山泥流が発生した。氷河は年を追うごとに巨大化し、2000年には約0.9km2にまで広がった。 1989年から1991年にかけて、セント・ヘレンズ山を震源とする群発地震が発生し、溶岩ドーム付近において小規模な爆発が発生した。また、1995年、1998年、2001年にも同様の群発地震が発生したが、このときには爆発は発生しなかった。
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1980年以降の活動
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「ミック・ジャガー」の記事における「1980年以降の活動」の解説
1980年代に入りミックとローリング・ストーンズは、81年にアルバム「刺青の男」を発表した。70年代末の不調を払拭するかのような傑作に仕上がり、「スタート・ミー・アップ」ほかのヒット曲が生まれた。ミックは1983年頃までストーンズを中心に活動したが、1984年から本格的なソロ活動を開始し、第一弾としてマイケル・ジャクソンとともにリード・ボーカルを担当したジャクソンズの楽曲「ステイト・オブ・ショック」を発売した。1985年、ビル・ラズウェルとナイル・ロジャースのプロデュースにより制作された初のソロ・アルバム『シーズ・ザ・ボス』を発表した。このアルバムからは「ジャスト・アナザー・ナイト」がシングル・カットされた。同年、デヴィッド・ボウイとのデュエットによるチャリティ・シングル「ダンシング・イン・ザ・ストリート」(1985) も発表。86年にローリング・ストーンズ名義で、ボブ&アールをカバーした曲「ハーレム・シャッフル」を発表し、好評を博した。こうした一連の活動状況にキースは強く反発し、ストーンズとして主だった活動は1986年の『ダーティ・ワーク』を除いて1989年まで行われなくなった。ミックは2ndソロ・アルバム『プリミティヴ・クール』を1987年に発売して大々的にコンサートツアーを催すことを発表した。このツアーで初めて来日した。このときバンドに参加したリサ・フィッシャーやバーナード・ファウラーの二人は、以降ストーンズの活動にも関わる。 1989年に、ミックはこれまで停滞していたストーンズの活動を再開した。アルバム・リリースとその中からのシングルカット、大規模なワールド・ツアーを行い、その一環でこれまで実現していなかったストーンズの初来日公演が実現したミックは、このツアーからストーンズの活動を中心にしながらソロ活動を展開し、1993年に『ワンダーリング・スピリット』をリリースした。95年には「ライク・ア・ローリング・ストーン」を発表。2001年にレニー・クラヴィッツをプロデューサーに迎えて制作された『ゴッデス・イン・ザ・ドアウェイ』といったアルバムをリリースした。またジョージ・W・ブッシュが大統領だった時代に「スウィート・ネオコン」を発表してネオコンを皮肉った。 ミックは2002年の誕生日の叙勲(英語版)で「ポピュラー音楽に対する貢献」によってナイトに叙勲され、2003年12月12日に叙任式が行われた。この数年前より当時のトニー・ブレア首相からナイト授与の要請があったことが明かされている。ミックはストーンズやソロ活動を理由にこれを断っていたが、このとき(2003年当時)首相より「ローリング・ストーンズが40年という前人未到の活動を続ける今、あなた以上にこれ(ナイトの称号)を得るに相応しい人物はいない」といわれたという。しかし、ミックの受章に対しキース・リチャーズは「俺は勲章の授与なんて馬鹿げたことだと思ったよ。そんなことはストーンズらしくないぜ。だろ?俺はくそ忌々しい冠を付けてきざなアーミンの白い毛皮を羽織った誰かさんとステージに上がるなんてゴメンだね。俺はミックに言ってやったよ。『そいつは糞食らえの無価値な名誉だ』ってね」とコメントし、これに対してミックは「キースはアイスクリームが欲しくて泣き叫ぶ子供。彼も本当は欲しいんだ」と反論している。2005年にストーンズのアルバム『ア・ビガー・バン』のレコーディングやそれに続くツアーのリハーサルを行う傍ら、ミックはその後も関係が続く元ユーリズミックスのデイヴ・スチュワートとともに映画「アルフィー」の音楽を手がけ、2007年には「ア・ビガー・バン・ツアー」の終了に前後して、自身初となるソロ・ベスト・アルバム『ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー』を発表する。これにはそれまでソロ・アルバムには未収録だった他のアーティストとのデュエットしたものなどが収められている。 2011年にはキャリア50年目にして初の別バンド「スーパーヘヴィ」を結成。ジャガーの他に、先の映画「アルフィー」の制作の際に関わったデイヴ・ステュアートと、ジョス・ストーン、ダミアン・マーリー(ボブ・マーリーの息子)、A・R・ラフマーンという5人組。9月21日にアルバム『スーパーヘヴィ』をリリース。さらにこの年、マルーン5がミックを題材にした楽曲「ムーブス・ライク・ジャガー(Moves like Jagger)」をリリースし、ビルボード1位を獲得している。これに制作されたPVでは、60年代から00年代までミックがライヴで着ていた衣装を再現したものを、数多くのモデルや俳優が纏い、動きもミックの真似をするというユニークなものとなっている。制作された当初のPVを閲覧した際、ミックが「自分の映像がフィーチャーされすぎているので、もっと減らしたほうが良い」とマルーン5側にアドバイスしたため。またミックはライブ映像で「ワイルド・ホーセズ」を、女性歌手フローレンス・ウェルチとデュエットした。 2014年、ストーンズのワールド・ツアーを行っている。しかし三月、日本公演後行われるはずだったオーストラリアに到着後、ミックの恋人で良きビジネス・パートナーでもあったローレン・スコットが自殺したという報告を聞いて、ミックは大変なショックを受け茫然自失となった。メンバーは各自が「今はミックを支える時だ」と声明を出し、これに伴って予定されていたオーストラリア、ニュージーランド公演は延期されることが発表された。2001年頃にローレンと出会ったミックはその後付き合うようになったといい、その後はメンバーの衣装も手がけるようになっていた。ローレンは約9百万ドルと言われる全資産をミックに遺した。 ローレンの死後、ミックはアメリカン・バレエ・シアターのバレリーナであるメラニー・ハムリックと恋人関係にあり、2016年には73歳にしてメラニーとの間に八人目の子供が誕生した。 2019年に、心臓弁の手術を受けるため、北米ツアーの延期を発表した。2019年3月にミックは、重度の大動脈弁狭窄症を指摘され、ニューヨークで経皮的大動脈弁置換術(Transcatheter Aortic Valve Implantation/Replacement:TAVR/TAVI)を受けたが順調に回復した。大動脈弁狭窄症は開胸手術が選択されることが多かったが適応拡大に伴い、開胸手術低リスク患者であるジャガーにも経皮的大動脈弁置換術が施行された。
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