織田氏との親族同盟
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天正6年(1578年)10月4日、織田氏の家臣で美濃斎藤氏の斎藤利治を軍団長とする織田氏の軍が、飛騨国を通過して越中国へ攻め入った。その時美濃斎藤氏の親族(頼綱室が斎藤氏)として、越中斎藤氏である斎藤信利・信吉と共にこれを支援した。飛騨国から茂住峠を越えて(長棟越え)越中に入り、月岡野の戦いには姉小路氏の軍も参加した。さらに今泉城攻城にも加勢した。 天正7年(1579年)に本拠を桜洞城から飛騨松倉城に移し、飛騨の統一に着手した。本拠移転後の同年中、長男の姉小路信綱に謀反の疑いをかけ、殺害している。頼綱は信長の部将佐々成政の越中における上杉征伐に協力しつつ、国内の親上杉派の国人衆を次々と攻め滅ぼしていった。 天正9年(1581年)冬、織田側と手切(断交)状態にあるとの報が上杉氏の家老の直江兼続にもたらされているが、これは姉小路氏と織田家による虚報・誤報であった。 飛騨国入口である加治田城の領土を大名として与えられていた斎藤利治と利堯は信長嫡男の織田信忠側近であり、これを通して織田家とは誼を結ぶ関係であり続けた。。 1581年の織田家による武田氏征服戦(甲州征伐)においては、飛騨口から武田領に侵攻した織田家飛騨軍の金森長近へ援軍として姉小路氏の家臣後方部隊を参加させている。
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