斎藤信利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 08:24 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天文23年(1554年) |
死没 | 慶長10年8月4日(1610年9月20日) |
別名 | 齋藤信利、通称:次郎右衛門尉 |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 上杉謙信→織田信長→上杉景勝→佐々成政→徳川家康 |
氏族 | 斎藤氏 |
父母 | 父:斎藤利基、母:神保氏娘 |
兄弟 | 信利、五郎次郎信言、信吉 |
妻 | 三木良頼娘 |
子 |
利次、利治、利政、正利、利信、 戸田由利室 |
斎藤 信利(さいとう のぶとし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・旗本。越中国城生城(蛇尾城)主。
出自
越中斎藤氏は藤原北家利仁流を称す、婦負郡楡原保[1]一帯に勢威を張った国人。桃井直常討伐に功があった祖・斎藤左衛門大夫入道常喜が文和年間に室町幕府初代将軍・足利尊氏より領地を賜ったことに始まるとされる。神保氏とは長らく敵対関係にあったが、天文年間に神保長職に攻められ服属した。
生涯
天文23年(1554年)、斎藤伯耆守利基の子として誕生。天正元年(1573年)に父・利基が没して跡を継いだ信利は、当初上杉氏に臣従していたが、上杉謙信の急死後、いち早く織田信長に誼を通じた。織田軍は飛越を結ぶ交通の要地城生城を拠点として斎藤利治、佐々長穐、神保長住らを送り込み、月岡野の戦いで上杉軍に大勝した。信利も手柄をあげ、信利の弟・久右衛門信吉も今泉城を攻略している。信長は斎藤兄弟の働きを評価し、朱印状を下した。諱の「信」は信長からの偏諱という。ところが本能寺の変が勃発すると、斎藤一族は上杉方へ寝返った。実は前年の秋以来上杉氏に通じていたらしい。その後も上杉景勝と結んで佐々成政に抵抗したが、神保氏張によって居城を奪われ、義兄姉小路頼綱を頼って落ち延びた。
その後頼綱の仲介によるか、旧敵佐々成政に仕えて能越国境の要衝湯山城を守ったが、成政没落後徳川家康に召し出され、下総国、近江国で1500石を給された。慶長15年(1610年)8月4日、山城国伏見にて没す。享年57。
子孫は旗本として続いている。赤穂事件において、赤穂城引渡目付として遣わされた書院番・斎藤左源太は末裔の一人である。
脚注
外部リンク
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