秀吉に仕える
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美濃国厚見郡西野村(あるいは今泉村。現在の岐阜県岐阜市西野町)の土豪・一柳直高の子として誕生。『一柳家記』によれば、母は稲葉一鉄の姪(姉の娘)。38歳没とする説をとるならば天文22年(1553年)生まれ、45歳没とする説をとるならば天文15年(1546年)生まれとなる。 元亀元年(1570年)より、織田氏の家臣・木下秀吉(のちの羽柴(豊臣)秀吉)に仕えた。天正元年(1573年)の浅井氏との小谷城の戦いでたびたび武功を挙げ、戦後長浜城主となった秀吉から黄母衣を預けられた7人(黄母衣衆)のうちの1人となった。250貫の知行と感状を与えられたという。 天正6年(1578年)、秀吉に従って播磨国に転戦し、三木合戦に従軍。播磨国で2500石の知行を得て、美濃国にいた弟の直盛(四郎右衛門、のち監物)を呼び寄せ、被官とした。天正7年(1579年)の秀吉による因幡国への侵攻に従う。天正8年(1580年)に父が没しており、遺領を相続した。天正10年(1582年)には備中高松城攻め・山崎の戦いに従軍した。同年末には山城国槇島城主となり知行1万石。その後、近江国勢田城に移って知行1万5000石という。 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに参加した。『一柳家記』によれば、直末は加藤光泰(作内)とともに軍奉行を務めた。この時に先鋒となった「先懸衆」のうち、一柳四郎右衛門(直盛)と稲葉清六が市助(直末)の家臣であった。
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秀吉に仕える(織田時代)
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「大谷吉継」の記事における「秀吉に仕える(織田時代)」の解説
天正始め頃に秀吉の小姓となった。天正5年(1577年)10月に秀吉が織田信長から播磨国攻略を命令されて姫路城を本拠地としたとき、脇坂安治や一柳直末、福島正則、加藤清正、仙石秀久らと共に秀吉御馬廻り衆の1人として大谷平馬の名前が見える。天正6年(1578年)5月4日に尼子勝久が上月城において毛利輝元の軍勢に包囲されたとき、秀吉は尼子軍を救援するために出陣したが、このときに吉継も従軍している。 その後の三木城攻めには馬廻として従軍し、10月15日に平井山で開かれた秀吉陣中での宴にも大谷平馬として名を連ねている。このときの禄は150石とも250石であったともいうが定かでない。 天正10年(1582年)4月27日、秀吉は毛利方の清水宗治が立て籠もる備中高松城を攻めた。このときも吉継は秀吉の馬廻りとして従軍している。しかし、ここまでの逸話の中で『武功夜話』が根拠となっている逸話については偽書説があるために信憑性について問題がある。 その2ヵ月後の6月2日に織田信長が本能寺の変で横死した。秀吉は6月13日に信長を殺した明智光秀を討ち、6月27日の清洲会議で織田氏の主導権を獲得して台頭してゆく。
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