秀吉による造営と滅失とは? わかりやすく解説

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秀吉による造営と滅失 (初代大仏・初代大仏殿)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 10:10 UTC 版)

京の大仏」の記事における「秀吉による造営と滅失 (初代大仏初代大仏殿)」の解説

豊臣秀吉天正14年1586年)に、松永久秀焼き討ちにより焼損した東大寺大仏代わる大仏造立発願当初東山東福寺南方にある遣迎院付近に造立する予定で、小早川隆景普請奉行とし、大徳寺古渓宗陳開山招請した。大仏大仏殿造立はいったん中止され遣迎院移転途中で中止された(遣迎院南北分立されてしまった)。のち天正16年1588年)に、場所を蓮華王院北側にあった浄土真宗佛光寺派本山佛光寺敷地変更して再開した佛光寺秀吉別荘「龍臥城」のあった現在地へ移転させられた。秀吉大規模工事巧みであった高野山木食応其造営の任にあたらせた。大仏殿鴨川東岸地区南北に貫く大和大路西面して建てられ、また大和大路西側には秀吉の手により伏見街道整備され、さらに秀吉五条大橋六条坊門移し京外への出口とするとともに大仏への参詣の便とした。 小田原征伐挟んで天正19年1591年5月大仏殿立柱が行われ(言経卿記)、文禄2年1593年9月上棟多聞院日記三宝院文書)、文禄4年1595年)に完成をみた。秀吉によって造立された初代大仏は、東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)の大きさであったという(愚子見記)。また、刀狩没収した武器再利用して釘にしたもの使われた。なお、造営期間短縮のため(既に50代になっていた秀吉が、自身生前落慶間に合わせるためか)、大仏当初計画されていたではなく木造乾漆造り(木造躯体作り,漆喰固めた上,さらに漆を塗って金箔貼る)で造られた(太閤記)。初代大仏造立には、仏師の宗貞・宗兄弟が製作に当たったという。彼らが製作に当たった他の仏像には、同じく豊臣秀吉造立関与した金峯山寺蔵王堂木造蔵王権現立像3躯がある。並立する3躯のうち、中央の像は最も高さがあり約7mもあるが、彼らはこうした巨像造立を得意としていたようである。また奈良伝香寺には宗貞の作の釈迦如来座像安置されるが、それは方広寺大仏試み仏像との伝承がある。 初代大仏殿南北45間(約88m)、東西27間(約55m)の規模であろう考えられている。これは大仏殿跡の発掘調査結果後述の秀頼再建2代目大仏殿創建時礎石そのまま使用しているとみられ位置は同じと思われること、『愚子見記』に再建大仏殿規模について上記寸法記載されていることによる初代大仏殿資料少なく建物構造などの全貌把握が困難であるが、建築史学者の黒田龍二監修の下、大林組広報誌季刊大林」にて、各種文献史料考古学的知見建築学的知見から復原案を提示している(『秀吉京都建立した世界最大木造建築 方広寺大仏殿復元』)。また絵図資料として、慶長11年(1606年)作とされる豊臣家御用絵師狩野内膳による『豊国祭礼図屏風』がある。この屏風には方広寺大仏殿描かれているが、現存する後述2代目大仏殿指図(設計図)や大仏殿描いた江戸期の他の絵図と、破風形状異なっている。方広寺大仏殿には観相窓(堂外から大仏拝顔できるようにする窓)があり、その上部に破風があるのが特徴であるが、他の絵図では唐破風なのに対し、本屏風では切り上げ破風となっている。これについて絵師ミスなければ、本屏風初代大仏殿造形描いたものであり、初代大仏殿2代目大仏殿細部意匠異なっていたのだろうとされている。なお東寺の金堂は、方広寺初代大仏殿模して造立されたとの伝承がある。東寺金堂豊臣秀頼寄進造立されたものであるが、『豊国祭礼図屏風』で描かれ大仏殿外観東寺金堂外観極めて類似している。豊臣秀頼生前100程の寺社建造物寄進行ったとされるが、指図(設計図)の流用があったのかもしれない東寺金堂観相窓の高さは、安置されている薬師如来の御顔の高さと合っていないので、窓を開けて如来光背しか見えず観相窓としては無用の代物になってしまっているという 。ただし明かり取り窓としては機能しているという 。これは本来この建物デザインは、大仏安置するために意匠されたもので、丈六薬師如来像安置するために意匠されたものではない(東寺のために意匠されたものではない)ためとされている。 文禄4年1595年9月25日には、秀吉自身亡父母や先祖菩提を弔うため寺内南北15東西21間の巨大な経堂千僧供養会を行った天台宗真言宗律宗禅宗浄土宗日蓮宗時宗浄土真宗一向宗)の僧が出仕要請された(日蓮宗不受不施派出仕拒否した)。千僧供養以後豊臣家滅亡まで、毎月行われた千僧供養出仕する千人もの僧の食事準備した台所が、妙法院に残る。当時敷地広大なもので、妙法院もとより現在の豊国神社京都国立博物館、そして三十三間堂敷地をも含むものであった現在の方広寺豊国神社から国立博物館西側見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿石垣であり、また三十三間堂南に遺る太閤塀(重要文化財)や南大門(重要文化財豊臣秀頼築造)も方広寺造営一環として整備されたものである。なお、東寺南大門重要文化財)は方広寺西門(境内組み込まれていた三十三間堂西門兼ねる)として建築されたものを明治になって東寺移築したのである文禄5年7月13日1596年9月5日)に起きた慶長伏見地震により、開眼前の初代大仏損壊した醍醐寺座主義演著した義演准后日記』によると、大仏の胸が崩れ左手落ち全身ひび割れ入ったという。ただし大仏光背無傷残ったという。工期短縮のために銅製ではなく木造としたことが裏目に出た秀吉憤り、『義演准后日記』には「本尊御覧早々崩しかえしのよし仰す (秀吉公が(損壊した)大仏御覧になり、早く取り壊せ命じた)」と、宣教師ぺドウロ・ゴーメスの書簡には「自身の身すら守れ大仏人びと救えるはずもないとして大仏粉々になるまで砕いてしまえと命じた」と記録されている。また一説には、秀吉怒りのあまり、大仏眉間に矢を放ったと伝わる。このような態度取った原因について秀吉大仏信仰の対象としてではなく、自らの権力誇示するための道具としか見なしていなかったためとする説もある。なお初大仏殿地震による損壊免れた秀吉は、夢のお告げ称して損壊した大仏代わり由緒ある信濃善光寺如来善光寺式阿弥陀三尊)(善光寺如来大名意向各地流転し当時甲斐善光寺在り)を移座して本尊迎え開眼法要を行うことを計画木食応其尽力により、慶長2年1597年7月18日善光寺如来が京に到着し大仏殿遷座された(義演准后日記)。善光寺如来は、大仏取り壊した台座の上宝塔(厨子のようなものか?)が造られ、そこに安置されたという。無傷であった光背そのまま残されていたという。これ以後大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれることになり(義演准后日記)、如来一目拝もうとする人々押し寄せるようになった。ただ巨大な大仏殿小ぶり善光寺如来不釣り合いであり、その異様さを嘲笑する声もあったという。秀吉は翌慶長3年1598年)病に臥したが、これは善光寺如来祟りではないかということで、同年8月17日善光寺如来信濃国善光寺戻されることとなった。しかし秀吉8月18日死去した秀吉の死は外部伏せられ8月22日には本尊の無い大仏殿で、大仏殿完成を祝う大仏供養が行われた。 秀吉の子豊臣秀頼遺志を継ぐ形で、豊臣家家臣片桐且元担当者として今度耐震性のある銅製大仏再建行ったが、慶長7年1602年11月鋳物師(いも-じ)の過失により大仏膝上部の鋳造行っている際に出火し大仏殿引火して大火となる。これにより初代大仏のみならず初代大仏殿滅失し、大仏・大仏殿造立振り出し戻った通常造の大仏大仏殿造立する場合、まず大仏完成させた後に、大仏殿を築くものだか、この工事の際は大仏殿は既にあったので、既設大仏殿内部大仏鋳造工事行っていたようである(鹿苑日録)。木造建築物内部鋳造工事を行うのは危険極まりない行為であり、起こるべくして起きた事故とも言える醍醐寺座主義演著した義演准后日記』には、「日本六十余州山木、ただ三時のあいだに相果ておわんぬ太閤数年の御労功ほどなく滅しおわんぬ。(材は日本各地から取り寄せたが、わずか6時間で焼失した秀吉公の数年苦労水のとなった)」と記録されている。また日記の中で義演は、そもそもこのような事態になったのは、初めから耐震性のある造で大仏造立しなかったためだと批判している。なお『義演准后日記によれば、この時の未完成大仏東大寺大仏のように全身造でなく、頭部と腕は木造とした、造と木造混構造造立される予定であったという。 豊臣秀吉像(狩野光信画)。豊臣秀吉大仏発願したことで京の大仏造立始まった。 [参考] 初代大仏造立携わった貞・宗兄弟製作した金峯山寺本尊蔵王権現立像秘仏のため普段非公開で、像高が約7mあることから「日本最大秘仏」とも称される。 [参考] 現在の五条大橋豊臣秀吉五条大橋方広寺大仏参詣への便を図るため、現在地移設した。五条大橋弁慶と牛若丸出会った場所ともされ、それを記念して石像の「牛若丸弁慶像」も設けられているが、平安時代五条大橋は、現在とは異なる場所に架橋されていた。 [参考] 東寺南大門東寺南大門は、方広寺西門(境内組み込まれていた三十三間堂西門兼ねる)として造立されたものを、明治時代東寺移築したのである

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