秀吉による朝鮮侵攻
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その頃、日本を統一(天下統一)した豊臣秀吉は、1589年に対馬を通じて、日本に服属し明征討の為の道を貸すべし、とする要求をし始めた。秀吉の意志は大陸への進出のためであったが、朝鮮側では日本の真意をはかりかね、日本の本意を探るため1590年3月に、西人の黄允吉を正使、東人の金誠一を副使とし、通信使を送ることにした。この使節が日本に滞在している間に、朝鮮内の勢力は西人優勢から東人優勢に変化しており、そのことがその後の判断に影響を与えた。 1591年3月に通信使が帰朝すると正使・黄允吉は、「日本は多くの軍船を用意して侵攻の準備をしている」と報告したのに対し、副使・金誠一は正反対の「秀吉は恐れる必要は無い」と報告をした。相反する報告を受け取った為、西人・東人ともに自派の意見を擁護し論戦になったが、このとき既に東人が朝廷を掌握していたことと王自身が戦争を心理的に忌避していたことなどから「侵攻説をむやみに流布することで民心を乱す行為は良くない」と言う結論に達し、一切の防衛準備を放棄し、またそれに準じる行為も禁止した。しかし1592年になり、朝鮮の倭館に居た日本人が次々に本国に帰っていくのを見ると、遅まきながら秀吉の朝鮮出兵は本気であることに気が付き、防衛準備を始めるが、時既に遅しであった。 1592年4月13日に始まった文禄の役では、態勢の整わない朝鮮軍は各地で敗北を重ね、豊臣軍に国土を制圧された。豊臣軍は開戦半月で首都漢城を攻略し、数ヶ月で朝鮮の咸鏡道北辺まで進出した。当時腐敗が進んでいた朝鮮政府は有効な手立てを打てず治安悪化により全土で国土は疲弊した。それに対して危機感と、日本への反感を持った民衆が抵抗を開始した。 民衆の中には朝鮮の圧政や腐敗に不満を持っているものも多く、豊臣軍に味方した者も相当数に上った。明の援軍が進出すると豊臣軍は交渉解決へ移行して戦線が膠着し、翌年、日本と明は和議交渉の過程で朝鮮南部の沿岸へ一旦兵を引き上げた。 しかし、和議は失敗に終わり、1597年1月15日、秀吉は再び朝鮮半島へ侵攻する(慶長の役)が、2回目の侵攻では全羅道と忠清道への掃討作戦を行い、明軍が漢城を放棄しないと見ると越冬と恒久占領の為に休戦期の3倍ほどの地域へ布陣した。翌年から本土で指揮を執っていた秀吉の健康が損なわれて消極的になり、泥沼状態になった戦争は秀吉の死去によって終結し、豊臣軍は引き上げた。この7年に及ぶ戦乱により、腐敗が進んでいた朝鮮の政治・社会は崩壊寸前まで追いやられ、経済的にも破綻寸前の状態に陥った。朝鮮は増収案として「納粟策」を提案したが、これは穀物や金を朝廷に供出した平民・賤民などに恩恵を与える政策である。賤民も一定の額を払えば平民になれ、平民も一定の額を出せば両班になれることとなった。この制度によって朝鮮の身分制度は大きく流動し、その構成比率は大幅に変化した。新しい体制が生まれ、腐敗は一時的に刷新された。政治には一時的に再び活気が蘇った。 一方、この戦争に明は多大な出費を余儀なくされ、国力の弱体化をもたらした。これは周辺異民族への明の抑えが利かなくなるという事でもあり、女真族の勢力伸張をもたらし、後の胡乱や明滅亡の遠因になった。 北島万次は「藩属国朝鮮にたいし、宗主国明」がどの様な態度で交渉したかについて、救援の決定から講和まで終始明が導いており、「宗主国とはいっても、結局みずからの利害を優先させる大国のご都合主義」を指摘している。
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