大陸への進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:17 UTC 版)
「第二次日韓協約」、「桂・ハリマン協定」、および「満洲善後条約」も参照 10月16日に横浜港に到着した小村は、さっそく韓国での支配権の確立を進めた。韓国保護国化については、第二次日英同盟によりイギリスの、桂・タフト協定によりアメリカの、ポーツマス条約によりロシアの承認を得たこの時期が好機とみられた。10月27日の韓国保護権確立実行に関する閣議決定にもとづき、4か条より成る協約文がつくられ、11月18日深夜、第二次日韓協約が結ばれた。韓国は外交権が剥奪されて日本の保護国となった。漢城には韓国統監府が置かれることとなり、初代統監には伊藤博文が就任した。 小村は、韓国だけでなく、満洲でも日本の権益を守ることに熱意を傾けた。小村滞米中の8月3日、アメリカの鉄道王エドワード・ヘンリー・ハリマンが来日し、9月12日、日本政府に対し韓国の鉄道と南満州鉄道を連結させ、そこでの鉄道・炭坑などに対する共同出資・経営参加を提案した。ハリマンの提案を、日本政府は好意的に受け止め、元老の伊藤、井上、山縣はこの案を承認、桂太郎首相は南満洲鉄道共同経営案に限って賛成し、仮契約のかたちで予備協定覚書を結んだ(「桂・ハリマン協定」)。しかし、帰国した小村はこれに反対、桂や元老たちを説得して10月23日、これを破棄した。小村がハリマン提案に反対した理由の一つは、小村が井上馨などと違って満洲での鉄道経営は日本の国益につながると考えていたためであり、もう一つは、金子堅太郎の情報によって、ハリマンのライバルであるモルガン系の企業から多額の融資を受ける目途が立っていたためである。 さらに小村は、清国にポーツマス条約の決定事項を認めさせるために、11月12日、自ら特派全権大使となって北京に乗り込んだ。11月17日から内田康哉とともに北京会議に臨んだ小村であったが、対する清国側全権は慶親王奕劻、瞿鴻禨(中国語版)、袁世凱であった。ロシアがいなくなった満洲の地に日本の勢力が新たに入ってくることについて、清国側は頑強に抵抗した。清国は、ロシアの満洲利権を日本に引き渡すことについては同意したものの、日本側の新たな要求に対しては容易に納得せず、交渉はポーツマス講和会議以上に難航した。ロシアの介入を防ぐために日清両国は会議の内容を極秘として一切公開しなかったが、そのため、日本は譲歩を迫られているのではないかとの憶測をまねき、小村はまたも国内からの強いバッシングを受けた。 小村は、盛京省沿岸の漁業権を要求していたがこれを放棄し、一方では、吉林省では日本以外の国に対して鉄道敷設権を与えないと約束させた。また、南満洲鉄道に並行する線路の敷設も禁止させた。交渉は1か月以上におよび、12月22日、満洲善後条約(北京条約)が結ばれた。これにより、遼東半島先端の旅順・大連は25年間の期限で日本の租借地となり、のちに「関東州」と呼ばれた。小村は、北京でも脳貧血で倒れた。清国を離れた小村は1906年1月1日、横浜に到着した。それに先立つ12月20日、首相の桂は辞表を提出していた。これにともない第1次桂内閣は総辞職し、1月7日、第1次西園寺内閣が成立、小村も外相を退任した。
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