満鉄の遺産
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満鉄が満洲の地に残した各種インフラは、日本が撤退して中華民国に返還されたのち、中華人民共和国に移り、1980年代に改革・開放政策が始まるまで、鞍山製鉄所や大慶油田とともに、不安定な状態が長く続いた中華人民共和国の経済を長く支えた。長春(新京)や大連、瀋陽(奉天)といった沿線主要都市では、現在でも日本統治時代の建築物を多数確認することが出来る。 満鉄関連の建物は多くが修復されながら現在も使われており、満鉄大連本社は現在でも大連鉄道有限責任公司の事務所としてその建物を使用しているほか、大連などにある旧ヤマトホテルは現在も大連賓館や遼寧賓館などとして営業を続けている。満鉄各線で運行されていた車両の一部は、ジハ1型など現在も現地で稼働するものもあるが、老朽化などの理由で徐々に廃車が進んでおり、一部は静態保存されている。 かつて満鉄に勤務した田中季雄は太平洋戦争後に次のように語っている。 戦後になって日本の大陸への進出を侵略としてとかく悪く言われるが、清国の衰退で国家の形をしていなかった現在の中国東北地域に新しい国をつくった満州国の場合は、五族(支那・満州・蒙古・日本・朝鮮)の民族協和による王道楽土の建設を目指し、満鉄はその新国家の動脈として産業発展と民生向上に大きく貢献していたと思う。満鉄が同地域に残した有形無形のものは極めて大きく、戦後の新中国の発展にも大きく役に立っているはずだ。 — 田中季雄、『日本の鉄道史セミナー』(2005)「第17章 満鉄の興亡」p.131 2017年4月6日、中国社会科学院は長春に満鉄研究の中心として「満鉄研究センター」を設立した。
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満鉄の遺産
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満鉄が満洲の地に残した各種インフラは、日本が撤退して中華民国に返還されたのち、中華人民共和国に移り、1980年代に改革・開放政策が始まるまで、鞍山製鉄所や大慶油田とともに、不安定な状態が長く続いた中華人民共和国の経済を長く支えた。長春(新京)や大連、瀋陽(奉天)といった沿線主要都市では、現在でも日本統治時代の建築物を多数確認することが出来る。 満鉄関連の建物は多くが修復されながら現在も使われており、満鉄大連本社は現在でも大連鉄道有限責任公司の事務所としてその建物を使用しているほか、大連などにある旧ヤマトホテルは現在も大連賓館や遼寧賓館などとして営業を続けている。満鉄各線で運行されていた車両の一部は、ジハ1型など現在も現地で稼働するものもあるが、老朽化などの理由で徐々に廃車が進んでおり、一部は静態保存されている。 かつて満鉄に勤務した田中季雄は太平洋戦争後に次のように語っている。 戦後になって日本の大陸への進出を侵略としてとかく悪く言われるが、清国の衰退で国家の形をしていなかった現在の中国東北地域に新しい国をつくった満州国の場合は、五族(支那・満州・蒙古・日本・朝鮮)の民族協和による王道楽土の建設を目指し、満鉄はその新国家の動脈として産業発展と民生向上に大きく貢献していたと思う。満鉄が同地域に残した有形無形のものは極めて大きく、戦後の新中国の発展にも大きく役に立っているはずだ。 — 田中季雄、『日本の鉄道史セミナー』(2005)「第17章 満鉄の興亡」p.131 2017年4月6日、中国社会科学院は長春に満鉄研究の中心として「満鉄研究センター」を設立した。
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