満鉄の合弁会社へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/02 05:07 UTC 版)
しかし強引な手法で建設された路線であったため、中華民国政府は認可しようとしなかった。営業開始後も沿線から苦情が続々と持ち込まれ、また鉄道の認可を巡る中国側との交渉も難航していた。貨物輸送も私営炭鉱の石炭に限定されていたため、経営状態はたちまち悪化していった。 さらに石本と本渓湖を本拠としていた本渓湖煤鉄有限公司の確執も発生している。両者はかつて当線の予定線と同経路の鉄道敷設を計画し、奉天省の議会に対する働きかけを積極的に行い、結局双方とも鉄道権益を獲得できなかったという事件があって以来、確執を有する関係であったが、渓堿鉄路が認可されない状況を見て自らの利益につなげようと運動を始めた。 既設の鉄道は認可されず、またその利権を巡り日本人同士の紛争も発生する事態に奉天の総領事館も事態の打開ができず、中国側から問題の早期決着を要望された。 そこで総領事館は第三者による調停を決定。ただし南満州鉄道は、渓堿鉄路の存在自体が自身の利害に大きく関係している事実や計画当初から参加していること、また権太に反対する官吏も存在したことから将来の利権交渉に支障が出る可能性を考慮して除外され、内閣鉄道院嘱託の鈴木誠作が選出された。 鈴木はまず石本と本渓湖煤鉄有限公司に対して紛争は両者に対し不利益であることを説明、両者も相手側に権利が譲渡されることは認められないが、満鉄が経営するのであれば異存ないと陳述したため、鈴木は全員に鉄道の権利を満鉄に譲渡する方針での交渉を進めさせ、同時に中国政府にも譲渡案を承認させようとした。 しかし奉天省は満鉄への譲渡案は中央政府が認めないと拒否。それでも日中合弁の事業者への譲渡であれば何とか認められる可能性はある、との妥協案を提示した。鈴木は満鉄と中国側との合弁会社設立を提言、中国側も満鉄と本渓湖煤鉄有限公司の合弁とすべしと結論を出した。この妥協案により渓堿鉄路は鉱山経営に不可欠な鉄道とされ、中央政府も納得するものとなった。 1914年4月2日、満鉄6割・本渓湖煤鉄有限公司4割の出資で合弁契約を締結、合弁会社は本渓湖-堿廠間の鉄道を運営する鉄道会社であり、そこに渓堿鉄路が吸収される形態により問題の解決がされたかと思われた。 だがこの段階で石本より、鉄道により石炭輸送を行っている牛心台炭鉱は本渓湖煤鉄有限公司との資本関係が存在しないとの異議が提出されたため、表面には出ないが石本も合弁に参加、資本比率は満鉄7割・本渓湖煤鉄有限公司3割と定められた。 経営に参画できるようになった石本は、渓堿}鉄路への態度を軟化、また経営も合弁によって権太から満鉄に移管されたこともあり、6月1日から石本の採掘した石炭の輸送も行うこととなり、経営状態は大きく改善された。 中国政府からの正式な認可も、中国側交渉員が政府内部への工作を行って奉天省長を説得したことで、9月25日に中央政府による合弁契約の正式認可が得られた。 これにより渓堿鉄路は南満州鉄道と本渓湖煤鉄有限公司との合弁に改組され、「渓堿鉄路公所」とされた。
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