満鉄包囲網と世界恐慌とは? わかりやすく解説

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満鉄包囲網と世界恐慌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 03:46 UTC 版)

南満洲鉄道」の記事における「満鉄包囲網と世界恐慌」の解説

世界恐慌」および「満蒙問題」も参照 1929年秋に始まった世界恐慌日本深刻な影響もたらしたのみならず満洲にも多大な影響及ぼした恐慌により満鉄営業成績著しく悪化したことに加え中国側満鉄並行鉄道の建設計画しており、もし、これが実現する満鉄経由貨物輸送がさらに減少し経営危機的状況陥ることが懸念された。なお、中国では、1930年5月から、蔣介石と反蔣介石連合との間で中原大戦始まっているが、その帰趨決したのは張作霖後継者張学良であった1930年9月閻錫山のもとに汪兆銘馮玉祥など反蔣の人々立場越えて集まり政権成立させたが、反蔣の立場から期待されていた満洲張学良9月18日蔣介石支持立場鮮明にしたのである張学良は、国民政府との協議のなかで、東北政務委員会東北交通委員会は、中央集権強化目指す立場には反しているとはしながらも、その存続主張して蔣介石から了解得ていた。 東北交通委員会は、日本満洲権益中核である満鉄中国鉄道包囲し満洲中の貨物満鉄から奪還し満鉄機能麻痺させる計画立てていた。すなわち、満鉄をはさむ東西の2大幹線建設し、これを北平北京) - 奉天間に集中させて、そのルート上に新たに築港して連絡させるならば、満鉄包囲してその死命を制するのみならずソ連権益鉄道である東支鉄道東清鉄道)にも重大な脅威与えることができるという構想である。資金調達官民合弁で、なおも不足する場合には、鉄道外国支配招かないよう厳しい条件付したうえで外国資本(特にアメリカ資本ドイツ資本)を受け容れることとした。すでに7月より錦州南方葫蘆島ではドイツ資本による大規模な海龍地区港湾建設工事始まっていた。東北交通委員会計画する2大幹線完成すれば満洲南北要地から中国鉄道経由して葫蘆島へ至る距離は、満鉄利用大連に行くのに比べて著しく短縮されるため、満鉄にとって一大脅威となることは充分に予想された。すでに完成している中国鉄道は、北寧(北平奉天)、奉海(奉天 - 海龍)、吉海(吉林 - 海龍)、吉敦(吉林 - 敦化)の東4線、北寧、四洮(四平街 - 洮南)、洮昴(洮南 - 昴昴渓)、斉克(チチハル - 克山)の西4線は連絡運転を開始しており、このうち、奉海・吉海の両線については連絡割引実施するなど、満鉄圧迫策を強めた世界恐慌の影響満洲においても端的にあらわれ、たとえば1930年昭和5年)度に大連港扱った輸出入貨物は、前年度比べて輸出200トン輸入50トン減少した。これは、当然満鉄輸送収入悪化させ、満鉄鉄道事業収益前年3分の1落ち込み、2,000人の従業員解雇余儀なくされた。さらに、長期的に低落していた銀相場1930年入って暴落したことも、銀建運賃とってい中国鉄道には有利である反面金建運賃とってい満鉄には大きな痛手であった。すなわち、銀貨国において金建運賃採用している満鉄にあっては、銀暴落必然的に運賃高騰を招くのであって安価なライバル線に貨物輸送奪われるのは当然のことだったのである世界恐慌、銀安、満鉄包囲網といった悪条件重なり1930年以降満鉄をめぐる情勢深刻なものとなっていった。1930年国勢調査では、関東州南満洲鉄道付属地帯満鉄付属地)に居住する日本人は、それぞれ10万人を超えていた。在満日本人228,000大部分満鉄附属地住し満鉄ならびにその付属会社直接間接に依存して生計立てていたのである浜口雄幸内閣外相幣原喜重郎は、北伐以後国権回復運動満鉄包囲網形成へと向かうことで「満鉄死地に陥れ」るものとなるという危機感をもち、1930年11月上旬、対満鉄交渉方針打ち立て懸案事項に関する大幅な譲歩方針決定した。つまり、田中内閣のときの山本張作霖協定5鉄道のうち、正式請負契約未だ成立していない3鉄道、すなわち吉五線吉林 - 五常)、延海線延吉 - 海林)、洮索線(洮南 - 索倫鎮)についてはすべて中国自弁敷設任せこととし、正式契約の成立している2路線についても、長大線(長春 - 大賚)は中国自弁鉄道敷設するよう努め、吉会線については敦化-老頭溝間のみを日本敷設し老頭溝-図們江に関しては当分権利を留保するとどめることとして、中国側国権回復熱の沈静化図ろうとしたのである。ただし、中国側敷設予定している鉄道のうち満鉄にとって致命的考えられる、鄭家屯 - 長春、鄭家屯 - 彰武洮南 - ハルビン洮南 - 通遼については、その敷設阻止するためにあらゆる手段講じることとした。そして、これまで満鉄平行線として抗議してきた吉海線上述)と打通線(打虎山 - 通遼)については、永続的な連絡協定満鉄中国鉄道とのあいだで結ばれることを条件抗議撤回することとした。幣原の案は必ずしも全面的な妥協ではなかったが、山本・張協定からみれば甚だし後退であり、また平行線の吉海・打通への異議撤回する一方で洮南-通遼などの建設絶対阻止しうるかについては甚だ疑問であると言わざる得ず全面的後退余儀なくされることも考えられた。幣原方針は、11月14日付の訓令によって重光葵代理公使伝えられた。 1931年昭和6年1月、前満鉄副総裁政友会代議士松岡洋右帝国議会で「満蒙わが国生命線である」と述べて満蒙重要性強調した松岡によれば満蒙日本勢力を張る至ったのは、中国朝鮮独立脅威与えロシア日本存立脅かしたからであり、それを日本日清日露の両戦争勝ち抜いたことで満蒙権益認められのであるとした。しかるに現在の満蒙国民経済的自立にとって欠かせない地域となっているにもかかわらず国防上の危機さらされているとして幣原外交を「軟弱」と批判して武力による強硬な解決主張した

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満鉄包囲網と世界恐慌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 22:17 UTC 版)

南満州鉄道」の記事における「満鉄包囲網と世界恐慌」の解説

世界恐慌」および「満蒙問題」も参照 1929年秋に始まった世界恐慌日本深刻な影響もたらしたのみならず満洲にも多大な影響及ぼした恐慌により満鉄営業成績著しく悪化したことに加え中国側満鉄並行鉄道の建設計画しており、もし、これが実現する満鉄経由貨物輸送がさらに減少し経営危機的状況陥ることが懸念された。なお、中国では、1930年5月から、蔣介石と反蔣介石連合との間で中原大戦始まっているが、その帰趨決したのは張作霖後継者張学良であった1930年9月閻錫山のもとに汪兆銘馮玉祥など反蔣の人々立場越えて集まり政権成立させたが、反蔣の立場から期待されていた満洲張学良9月18日蔣介石支持立場鮮明にしたのである張学良は、国民政府との協議のなかで、東北政務委員会東北交通委員会は、中央集権強化目指す立場には反しているとはしながらも、その存続主張して蔣介石から了解得ていた。 東北交通委員会は、日本満洲権益中核である満鉄中国鉄道包囲し満洲中の貨物満鉄から奪還し満鉄機能麻痺させる計画立てていた。すなわち、満鉄をはさむ東西の2大幹線建設し、これを北平北京) - 奉天間に集中させて、そのルート上に新たに築港して連絡させるならば、満鉄包囲してその死命を制するのみならずソ連権益鉄道である東支鉄道東清鉄道)にも重大な脅威与えることができるという構想である。資金調達官民合弁で、なおも不足する場合には、鉄道外国支配招かないよう厳しい条件付したうえで外国資本(特にアメリカ資本ドイツ資本)を受け容れることとした。すでに7月より錦州南方葫蘆島ではドイツ資本による大規模な海龍地区港湾建設工事始まっていた。東北交通委員会計画する2大幹線完成すれば満洲南北要地から中国鉄道経由して葫蘆島へ至る距離は、満鉄利用大連に行くのに比べて著しく短縮されるため、満鉄にとって一大脅威となることは充分に予想された。すでに完成している中国鉄道は、北寧(北平奉天)、奉海(奉天 - 海龍)、吉海(吉林 - 海龍)、吉敦(吉林 - 敦化)の東4線、北寧、四洮(四平街 - 洮南)、洮昴(洮南 - 昴昴渓)、斉克(チチハル - 克山)の西4線は連絡運転を開始しており、このうち、奉海・吉海の両線については連絡割引実施するなど、満鉄圧迫策を強めた世界恐慌の影響満洲においても端的にあらわれ、たとえば1930年昭和5年)度に大連港扱った輸出入貨物は、前年度比べて輸出200トン輸入50トン減少した。これは、当然満鉄輸送収入悪化させ、満鉄鉄道事業収益前年3分の1落ち込み、2,000人の従業員解雇余儀なくされた。さらに、長期的に低落していた銀相場1930年入って暴落したことも、銀建運賃とってい中国鉄道には有利である反面金建運賃とってい満鉄には大きな痛手であった。すなわち、銀貨国において金建運賃採用している満鉄にあっては、銀暴落必然的に運賃高騰を招くのであって安価なライバル線に貨物輸送奪われるのは当然のことだったのである世界恐慌、銀安、満鉄包囲網といった悪条件重なり1930年以降満鉄をめぐる情勢深刻なものとなっていった。1930年国勢調査では、関東州南満洲鉄道付属地帯満鉄付属地)に居住する日本人は、それぞれ10万人を超えていた。在満日本人228,000大部分満鉄附属地住し満鉄ならびにその付属会社直接間接に依存して生計立てていたのである浜口雄幸内閣外相幣原喜重郎は、北伐以後国権回復運動満鉄包囲網形成へと向かうことで「満鉄死地に陥れ」るものとなるという危機感をもち、1930年11月上旬、対満鉄交渉方針打ち立て懸案事項に関する大幅な譲歩方針決定した。つまり、田中内閣のときの山本張作霖協定5鉄道のうち、正式請負契約未だ成立していない3鉄道、すなわち吉五線吉林 - 五常)、延海線延吉 - 海林)、洮索線(洮南 - 索倫鎮)についてはすべて中国自弁敷設任せこととし、正式契約の成立している2路線についても、長大線(長春 - 大賚)は中国自弁鉄道敷設するよう努め、吉会線については敦化-老頭溝間のみを日本敷設し老頭溝-図們江に関しては当分権利を留保するとどめることとして、中国側国権回復熱の沈静化図ろうとしたのである。ただし、中国側敷設予定している鉄道のうち満鉄にとって致命的考えられる、鄭家屯 - 長春、鄭家屯 - 彰武洮南 - ハルビン洮南 - 通遼については、その敷設阻止するためにあらゆる手段講じることとした。そして、これまで満鉄平行線として抗議してきた吉海線上述)と打通線(打虎山 - 通遼)については、永続的な連絡協定満鉄中国鉄道とのあいだで結ばれることを条件抗議撤回することとした。幣原の案は必ずしも全面的な妥協ではなかったが、山本・張協定からみれば甚だし後退であり、また平行線の吉海・打通への異議撤回する一方で洮南-通遼などの建設絶対阻止しうるかについては甚だ疑問であると言わざる得ず全面的後退余儀なくされることも考えられた。幣原方針は、11月14日付の訓令によって重光葵代理公使伝えられた。 1931年昭和6年1月、前満鉄副総裁政友会代議士松岡洋右帝国議会で「満蒙わが国生命線である」と述べて満蒙重要性強調した松岡によれば満蒙日本勢力を張る至ったのは、中国朝鮮独立脅威与えロシア日本存立脅かしたからであり、それを日本日清日露の両戦争勝ち抜いたことで満蒙権益認められのであるとした。しかるに現在の満蒙国民経済的自立にとって欠かせない地域となっているにもかかわらず国防上の危機さらされているとして幣原外交を「軟弱」と批判して武力による強硬な解決主張した

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