満鉄中興の祖、山本条太郎
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「南満洲鉄道」の記事における「満鉄中興の祖、山本条太郎」の解説
「北伐 (中国国民党)」および「山本条太郎」も参照 1926年7月1日、蔣介石が北京政府撲滅を目指すとして北伐を宣言して軍事行動を開始した。蔣介石率いる国民革命軍が南京、上海を占領して、1927年5月、山東省にせまると、田中義一内閣は同省の在留日本人保護を理由に派兵声明を発した(山東出兵)。 6月27日から7月7日にかけては東京で東方会議が開かれ、出先の軍人・外交官・行政官によって中国情勢の検討がなされたが、満蒙政策については、奉天派軍閥の領袖、張作霖を排除して傀儡政権を満洲に作るべしとする意見と張作霖勢力とは連携して日本の満蒙権益を維持・拡大しようという意見とに大きく分かれていた。前者には後に張作霖を爆殺して満洲占領を実行にうつそうという関東軍の一派がふくまれており、後者の意見は田中義一首相兼外相や陸軍省首脳部のものであった。大陸政策に深くかかわっていた実業家出身の衆議院議員(当時はまだ当選2回)、山本条太郎は後者の意見に立っており、田中首相は東方会議ののち、山本を満鉄社長に任じた。山本は大胆な改革を行い「満鉄中興の祖」ともいわれ、副社長には山本の腹心の松岡洋右が就任した。 山本は、三井物産上海支店で貿易の手腕を発揮し、帰国後は三井物産理事、常務取締役を歴任したのち、1920年には立憲政友会に入党して国政選挙に立候補して当選し、1927年には政友会幹事長となった切れ者であった。山本は「産業立国論」を持論とし、人口問題、食糧問題、金融恐慌、失業問題の解決のため、「満蒙分離」を前提に鉄道網の拡充を柱とした満洲開発の推進を唱えた。そのうえで、満洲を農業、鉱工業、移民の受け入れ地とすべく、満鉄を活用しようとし、具体的には、製鉄事業と製油事業の充実、マグネシウム・アルミニウム関連工業ならびに肥料工業の振興、さらに移民拓殖を推し進める一方、「経済化」と「実務化」をスローガンに関連企業の統廃合を図って経営合理化を進めた。さらに山本は松岡副社長ともに満鉄敷設問題を具体化し、 * 吉会線 … 敦化から老頭溝(中国語版)を経て図們江(豆満江)に至る線 * 長大線 … 長春から大賚(現、大安市)に至る線 * 吉五線 … 吉林から五常に至る線 * 延海線 … 延吉から海林に至る線 * 洮索線 … 洮南から索倫鎮(ソロン鎮)に至る線 の計5線の敷設を張作霖との交渉を通じて基本合意を実現した。当時、張作霖は北京にあって南方の軍閥や蔣介石と戦闘しており、山本と松岡は北京を訪ねて新線敷設の折衝を行ったが、張作霖は交渉引き延ばしを図り、ようやく山本らの要求を呑んで鉄道工事の許可を出した。しかし、細目の交渉をこれから進めようという段になって張作霖その人が亡くなってしまった。
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満鉄中興の祖、山本条太郎
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「南満州鉄道」の記事における「満鉄中興の祖、山本条太郎」の解説
「北伐 (中国国民党)」および「山本条太郎」も参照 1926年7月1日、蔣介石が北京政府撲滅を目指すとして北伐を宣言して軍事行動を開始した。蔣介石率いる国民革命軍が南京、上海を占領して、1927年5月、山東省にせまると、田中義一内閣は同省の在留日本人保護を理由に派兵声明を発した(山東出兵)。 6月27日から7月7日にかけては東京で東方会議が開かれ、出先の軍人・外交官・行政官によって中国情勢の検討がなされたが、満蒙政策については、奉天派軍閥の領袖、張作霖を排除して傀儡政権を満洲に作るべしとする意見と張作霖勢力とは連携して日本の満蒙権益を維持・拡大しようという意見とに大きく分かれていた。前者には後に張作霖を爆殺して満洲占領を実行にうつそうという関東軍の一派がふくまれており、後者の意見は田中義一首相兼外相や陸軍省首脳部のものであった。大陸政策に深くかかわっていた実業家出身の衆議院議員(当時はまだ当選2回)、山本条太郎は後者の意見に立っており、田中首相は東方会議ののち、山本を満鉄社長に任じた。山本は大胆な改革を行い「満鉄中興の祖」ともいわれ、副社長には山本の腹心の松岡洋右が就任した。 山本は、三井物産上海支店で貿易の手腕を発揮し、帰国後は三井物産理事、常務取締役を歴任したのち、1920年には立憲政友会に入党して国政選挙に立候補して当選し、1927年には政友会幹事長となった切れ者であった。山本は「産業立国論」を持論とし、人口問題、食糧問題、金融恐慌、失業問題の解決のため、「満蒙分離」を前提に鉄道網の拡充を柱とした満洲開発の推進を唱えた。そのうえで、満洲を農業、鉱工業、移民の受け入れ地とすべく、満鉄を活用しようとし、具体的には、製鉄事業と製油事業の充実、マグネシウム・アルミニウム関連工業ならびに肥料工業の振興、さらに移民拓殖を推し進める一方、「経済化」と「実務化」をスローガンに関連企業の統廃合を図って経営合理化を進めた。さらに山本は松岡副社長ともに満鉄敷設問題を具体化し、 * 吉会線 … 敦化から老頭溝(中国語版)を経て図們江(豆満江)に至る線 * 長大線 … 長春から大賚(現、大安市)に至る線 * 吉五線 … 吉林から五常に至る線 * 延海線 … 延吉から海林に至る線 * 洮索線 … 洮南から索倫鎮(ソロン鎮)に至る線 の計5線の敷設を張作霖との交渉を通じて基本合意を実現した。当時、張作霖は北京にあって南方の軍閥や蔣介石と戦闘しており、山本と松岡は北京を訪ねて新線敷設の折衝を行ったが、張作霖は交渉引き延ばしを図り、ようやく山本らの要求を呑んで鉄道工事の許可を出した。しかし、細目の交渉をこれから進めようという段になって張作霖その人が亡くなってしまった。
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